宮台真司の月刊映画時評 第8回(後編)
宮台真司の『ニュースの真相』評:よく出来た映画だが、トランプ現象の背景を捉えきれない
映画『コングレス』的な社会の現実化
僕は夏にボケモンGOが発売されたとき、とうとう『コングレス~』の世界が来たなと思いました。映画後半と原作が重なるので、そこについて紹介します。未来はITとクスリを用いた拡張現実が普及しています。人々は自分が成りたいキャラクターになり、生きたい現実を生きます。
拡張以前の素の現実を生きる人は極く僅かです。素の現実は、環境が破壊されて廃墟化し、食べ物がエサ同然ですが、全てが技術を通じて体験加工されています。特定の拡張現実に入るにも薬。拡張現実から離脱するにも薬。結局は[薬と特定現実]の組。素の現実も拡張現実も所詮等価です。
人は「見たいものだけを見、見たくないものを見ない」で生きています。そこでは、素の現実を見たいという意欲も、「見たいものだけを見、見たくないものを見ない」生き方のバリエーションの一つです。作品は、そんな社会は非倫理的か、そんな社会でどんな倫理が成り立つかと問います。
レムの原作には、先進国で生きるということ自体、常に既に、「見たいものだけを見、見たくないものを見ない」生き方なのだとする見切りがあります。トマ・ピケティが見出した第2次大戦後20年余りの製造業を通じて中間層が分厚くなる時代も、資源のタダ同然の買い叩きが支えました。
1980年代に入って特に石油のタダ同然の買い叩きが不可能になってから、物を作って上がる利益が、金融から上がる利益よりも低くなり、その結果先進各国は極度の低金利となりました。儲からないので、資本はより固定費の低い場所を目差して移動し、グローバル化が進展したのです。
グローバル化の進展は、先進各国の中間層を分解させ、先に申し上げた「周辺化されるがゆえに、埋合せのために権威主義化する存在」を大量生産し、ネトウヨ化を推し進めます。そんな中、そうした存在を「包摂」してマイルド化する機能を果たすのが、ポケモンGO的な拡張現実なのですね。
技術的な体験制御が再配分を免除する
理念型的な新反動主義者は、こうした技術の発達が、貧困を埋める為の政治的再配分の制度を不要にすると考えます。先進国の貧困は所詮主観的ビジョンです。社会学では相対的剥奪感と言いますが、特定準拠集団を参照して自己評価するだけ。準拠集団の選択は恣意的で、主観的です。
所詮は主観的ビジョンであれば、拡張現実で制御できます。技術を使えば、情報が物材をさして用いずに体験を与えるので、物材の稀少性はどうでもよくなります。物材だけでなく、自己イメージの稀少性も克服されます。味や匂いと同様に、自己イメージも所詮は情報の体験に過ぎない。
そこでは人々が入手したがる財(イメージを含む)を巡る需要と供給のゲームがあるだけ。或いは膨大な無償の贈与もあり得ます。とすれば、貧乏を再配分で手当てする必要も、社会的底辺での差別的な生まれを手当てする必要もなくなります。これが制度ならぬ技術による社会変革です。
ユングが喝破したように、神秘体験の存在は神秘現象の存在を意味しません。敷衍すれば、我々には<世界>(現実界)が与えられることはなく、<世界体験>(想像界)だけが与えられます。<世界>を<世界体験>に変換する函数がパーソンシステムと社会システムにおける言語的操縦(象徴界)です。
<世界>を<世界体験>へと変換する函数であるパーソンと社会。パーソンと社会による<世界体験>の出力は、技術による媒介でいかようにも制御できます。制度は万人を巻き込みますから押しつけがましいけれど、技術は幾らでも個人化できます。ポケモンGOはやりたくなきゃやらなくていい。
同じ理屈で、差別主義者はひたすら差別をすればいい。差別を是正する必要はない。差別主義者からなる共同体と、差別される者からなる共同体や反差別主義者の共同体とが、別々の拡張現実として分離され、互いに交わらないように制御されればいいだけ。新反動主義者はそう考えます。
トランプ支持を反知性的と退けられない
こうして技術は、ヒトから、ヒトである必要を免除します。人間的なパーソンである必要も、人間的な社会である必要も、なくなります。そうした社会を描き出しているのが、J・G・バラード原作にかなり忠実な映画『ハイ・ライズ』です。そこでは壊れた人間たちの共同体が擁護されます。
同型の理屈で、技術による社会変革を旨とする新反動主義者──テクノロジストのオルタナ右翼──は、差別ありぃの、ファイトクラブありぃの、といった壊れた人間たちの共同体を擁護するがゆえに、トランプを圧倒的に支持し、制度による社会変革を主張するヒラリーを蔑むのです。
そこがブッシュ支持のネオコンと、トランプ支持の新反動主義者との間の違いです。どちらも「周辺化の不安を埋合せるべく巨大なものに縋る」馬鹿層の動員を図りますが、前者は統合を、後者は錯乱(の共在)を目差します。前者が『ニュースの真相』、後者か『ハイ・ライズ』に対応します。
シリコンバレーのテクノロジストらは、彼らがリベラルに見えた1970年代も、その一部がオルタナ右翼化していると見える2010年代も、一貫して「技術による人間解放」を唱導しています。但し、前者の解放は子宮回帰的、後者の解放は多型倒錯的です。後者は前者を含み得るので一般的です。
シュタイナーやフロイトから始まる、ヒトが言語的自動運動によって駆動されたオートマトンであることを拒絶する思想は、言語的存在へと縛り付けられた1次元化したヒトである必要を、技術が免除してくれるとするマルクーゼを経て、意外にもトランプ支持へと行き着いているのです。
シュタイナーやフロイトに始まる、ヒトが言語的自動運動で駆動されるオートマトンであるのを拒絶する思想に僕自身連なるがゆえに、トランプを支持するシリコンバレー系のテクノロジストに相当の理を認めます。僕の共同体自治の思想とどこが違うかは、いずれ映画に即して語ります。
リベラルのクソ化が生んだトランプ現象
最後に、ヒラリーに代表されるリベラルのどこがクソ感を与えるのかをお話しします。結論から言うと、昨今のリベラルは<安全・安心・便利・快適>が柱の一つです。実際ヒラリーは「フィール・グッド・ステイト」という言葉でそれを理念化しています。しかし人はそれで幸せになれるのか。
でも、僕がよく言うように、<安全・安心・便利・快適>より<渾沌と眩暈>こそが大切だという価値観があり得ます。僕が初期ギリシア思想が好きなのはそうした価値観を体現するからです。学園闘争時代のニューレフトは違いましたが、80年代以降の左翼は<渾沌と眩暈>を取り零しました。
僕の考えでは、新反動主義やそれを含むオルタナ右翼に媚びるトランプの移民排斥への呼び掛けは、一見ヒラリーと同じく「テロの脅威」を口実にしますが、メッセージの質感は、<安全・安心・便利・快適>よりもむしろ闘争による<渾沌と眩暈>の取り戻しを呼び掛けるものだと断言できます。
リベラルのもう一つの柱が<権利獲得>です。昨今の典型がLGBTです。しかし僕が各所で述べるように、<権利獲得>しても性愛で幸せになれる訳じゃない。むしろ無関係です。性愛の幸せは<権利獲得>ではなく<生き方>の問題だからです。フェミニズム界隈に非常に目立つ勘違いです。
米国の新反動主義を含めたオルタナ右翼界隈に、ゲイを中心とした性的少数者が目立つのは、それに関連すると僕は思います。リベラルは<権利獲得>に傾斜する余りに<生き方>への美学的注目を蔑ろにしてきました。オルタナ右翼は、女性憎悪というゲイの<生き方>を肯定しています。
僕が大好きなグザヴィエ・ドラン監督の作品には、ゲイである監督自身のミソジニー(女性憎悪)が表出されています。ダイヴァーシティ(多様性)という時、リベラルはゲイのミソジニスティックな生き方を許容しているだろうか。だから僕は「多様性」ではなく「何でもあり」と翻訳します。
人は<安心・安全・便利・快適>と<権利獲得>で幸せになれるのか。「新左翼の父」マルクーゼが1次元性として唾棄したのはその種の勘違いで、バラードに限らず数多の小説や映画が主題化してきました。勘違いに塗れた昨今のリベラルは、マルクーゼに照らせば1次元性に塗れたクソです。
そう感じる者が、ヒラリーを憎悪し、トランプに軍配を挙げるのは、何の不思議もない。たとえ演技にせよ、トランプが、<安心・安全・便利・快適>と<権利獲得>でフラット化するしかない生livingの反対側を生きているように見えるからです。トランプはリベラルのクソ化が生み出したのです。
■宮台真司
社会学者。首都大学東京教授。近著に『14歳からの社会学』(世界文化社)、『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』(幻冬舎)など。Twitter
■公開情報
『ニュースの真相』
公開中
出演:ケイト・ブランシェット、ロバート・レッドフォード、エリザベス・モス、トファー・グレイス、デニス・クエイド、ステイシー・キーチ
脚本・監督:ジェイムズ・ヴァンダービルト
配給:キノフィルムズ
原題:「TRUTH」/2015年/アメリカ・オーストラリア/125分/シネスコ
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公式サイト:truth-movie.jp