名脚本家・木皿泉はどこに行く? ドラマ評論家・成馬零一が『富士ファミリー』を考察

 これが、日本テレビ時代の作品――例えば『野ブタ。をプロデュース』なら、いじめを題材にした学園ドラマで主演がジャニーズアイドルの亀梨和也と山下智久といった、木皿泉とは無関係な外部から入ってくる要素があって、それをどうやって木皿泉の世界観に読み替えていくのか、という緊張感が、作品に凄味を与えていた。

 それに対して、NHKを主戦場にして以降の木皿泉作品は、木皿の思想が制約なく表現されているがゆえに、ドラマ自体が狭いものになっているように感じる。本作で木皿泉とはじめて出会った人なら、この世界観に圧倒されることだろう。しかし、『すいか』から見てきた視聴者にとっては、どこか自己模倣に見えてしまう。また、『すいか』等で木皿泉が穏やかな日常を描いた時は、そういった日常を嫌悪する暴力的衝動にかられた“通り魔的な存在”が描かれていた。

 本来なら『富士ファミリー』の吸血鬼と自称する青年は、そういう通り魔的な存在なのだろうが、どうにも描写が淡泊すぎて、あまり機能していない。相反する要素を配置して、対立軸を作ることでお話を展開するというのはテレビドラマのセオリーだが、対立軸をあえて外した結果、木皿泉の思想に共感する人だけしかいない世界になってしまっているのだ。

 とはいえ、こういった変化は、木皿泉にとっては、ある種の必然なのだろう。すでに二人とも50歳を超えており、夫の介護をしながら神戸のマンションで脚本を執筆する木皿泉の近況を知っていると、作者自身が死ぬ準備をしている姿が、ドラマを通して透けて見え、何も言えなくなってしまう。

 だが、神棚に飾って有難がられる大御所になってしまうのは、まだ早いのではないかとも思う。これは木皿泉の問題というよりは木皿と組むプロデューサーや演出家の課題なのだろう。例えば、渡辺あやに連続テレビ小説『カーネーション』(NHK)を書かせたようなアプローチこそが、今の木皿泉には必要なのではないだろうか。

 テレビドラマでそれができないなら、他のジャンルでも構わない。もう一度、木皿泉が暴力的な外部と向き合うような物語が見たいのだ。

■成馬零一
76年生まれ。ライター、ドラマ評論家。ドラマ評を中心に雑誌、ウェブ等で幅広く執筆。単著に『TVドラマは、ジャニーズものだけ見ろ!』(宝島社新書)、『キャラクタードラマの誕生:テレビドラマを更新する6人の脚本家』(河出書房新社)がある。

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