名脚本家・木皿泉はどこに行く? ドラマ評論家・成馬零一が『富士ファミリー』を考察

 1月2日に放送されたNHK新春スペシャルドラマ『富士ファミリー』は、お正月にふさわしい穏やかなホームドラマであると同時に、哲学的な問いかけに満ちた奥深い作品だった。

 舞台は富士山のふもとにある古ぼけたコンビ二エンスストア・富士ファミリー。そこで暮らす小国家の人々の物語だ。ある日、笑子バアさん(片桐はいり)の前に次女・ナスミ(小泉今日子)が幽霊として現れるところからドラマは始まる。

 本作はいわゆる群像劇だ。デパートで働く長女の鷹子(薬師丸ひろ子)、富士ファミリーに住み込みで働くことになったカスミ(中村ゆりか)、ナスミの元夫で、今も小国家と付き合い店を切り盛りしている木下日出男(吉岡秀隆)といった人々の日常生活を通して、心の奥にしまっている漠然とした不安が連鎖的に描かれていく。

 脚本は木皿泉。妻鹿年季子と和泉務という夫婦で執筆している二人一組の脚本家だ。『すいか』、『野ブタ。をプロデュース』、『Q10』(それぞれ、日本テレビ系)などといった作品を手掛けており、本数はあまり多くないが、どの作品も細部まで作り込まれていて何度見ても新たな発見のあるドラマとなっている。

 『富士ファミリー』で印象に残るのは、鷹子たちが感じている老いてゆくことに対する不安と対比される形で登場する幻想的な存在だ。幽霊として現れる次女のナスミ、三女の月美がそばやで知り合った自称・吸血鬼の青年(細田善彦)、そして、介護(されるためだけに存在する)ロボットのマツコロイド。幽霊や吸血鬼、ロボットといったファンタジックな存在と親の介護の問題のような地に足のついた日常描写が共存しているのも、木皿泉作品の面白さだ。

 木皿泉作品は、故人の残したメモの言葉を切り抜くという象徴的な行為や、「私、ここにいていいのかね?」といった意味深な台詞を繰り返すことで、これはどういう意味があるのだろうか? と考えさせる構造となっている。この問いかけを面白いと思える人にとっては木皿泉の台詞は宝の山で、見どころ満載だろう。

 だが、哲学的な作品というのは作り手が本気で迷っている時は、強い緊張感が宿るものだが、『富士ファミリー』は、すでに決まっている結論が先にあって、そこに向かって物語を進めていったような印象がある。例えば、鷹子がカスミに言う「大丈夫じゃない時は大丈夫じゃないと言う」といった台詞の力強さには、共感するものがある。しかし、台詞の力にくらべると、肝心のドラマ自体はどこか淡泊に見える。

 昨年放送された『昨夜のカレー、明日のパン』(NHK BSプレミアム)にも同じことを感じた。台詞に宿る木皿泉の哲学は凄いのだが、登場人物が作者の思想を代弁する装置のように見えてしまい、お話自体は予定調和に感じた。

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