迫真の密着ドキュメンタリー『ヤクザと憲法』が示す、東海テレビのジャーナリズム精神
タイトルが妙に引っ掛かる映画「ヤクザと憲法」は、東海テレビが制作したテレビドキュメンタリーの劇場作品になる。“テレビ局”と聞いた途端、“今のテレビに何ができる”と、期待感が薄らぐかもしれない。それは昨今、何かとコンプライアンスでがんじがらめになったテレビ番組を踏まえれば仕方ないことか。でも、その疑念は拭い去っていい。そのことを本作は証明する。
「ヤクザと憲法」。およそ不釣合いな言葉が並んだこの作品が見せてくれるのは、安全圏とでも言おうか、あらかじめ報道陣が待ち構えて遠くから押さえたニュース映像のような、いわば表向きのヤクザの映像ではない。正真正銘、その内部にきっちり飛び込んで押さえた、現代ヤクザの舞台裏だ。
冒頭のショット、大阪府堺市の住宅街が映し出される。建物自体はほぼ周囲に溶け込んでいる。でも、何台もの監視カメラが設置され、よく見ると扉は鉄製でなにやら物々しい。その重厚な扉が開かれ、カメラがその中へとためらいなく踏み込んでいく。ノンフィクション作家たちが書いた暴力団関係の書籍を手にとったことがある者には、その字面でイメージしていた暴力団事務所の内部のリアル版がカメラの先に広がる。当たり前といえば当たり前だが、ヤクザ映画で見る光景と大差はない。映画やドラマがきちんとリサーチした上で、セットを組んでいることをなんとなく確認してしまう。でも、何かが違う。組員が特に映っていないスペースを映し出していても映像が何か殺気立っている。よくあるビルの一室のようなのになぜか危険な空気が充満している。画面からその気配がひしひしと伝わってくる。
ただ、これはヤクザの事務所がいつ襲撃にあってもおかしくないという危険地帯の認識から感じるものではない。むしろ撮影する側、される側が火花を散らし、せめぎあったからこそ撮れたヤクザの日常の映像といった方がふさわしい。
組長から了承を得たものの、中にはそれをよしと思っていない組員もいる。明らかにカメラを向けられることに不快を示している組員もいる。そんな不穏な雰囲気にカメラは圧倒されのけぞりながらも、踏みとどまる。そして、対象者がヤクザであろうとひかない構えを相手に見せる。
ある種、危険を伴う取材対象の場合、どこまで踏み込むべきなのか?これは難しい。その中で、すべてとは言わないが今の大手メディアは、波風立たないひとつのクレームもこないようなところに落ち着く。でも、東海テレビのスタッフは、ギリギリのラインをつくことを厭わない。最初から白旗は絶対に上げない。その場の状況を見て、攻めるときは攻め、引くときは引く。
それを象徴するシーンが2つある。ひとつは若頭が何かミスをした若い組員を部屋に呼び出すシーン。ものすごい怒り声がドア越しに響く。カメラはドアを開けるか開けまいか悩みながら、最終的にドアノブを映し続ける。しかし、むしろこれが恐怖を倍増させる。一体、この中で何が起きているのか?と慄くと同時に、ヤクザのしきたりが克明に浮かびあがる。これはいわば引いたことで撮れたスクープだ。
もうひとつはある組員を同行取材しているシーン。この組員は場所を移しながらいろいろな人間に何かを売っている。そこで土方監督は組員に何をやっているのか問う。しかもしつこく一歩も引かない。こちらが“それ以上突っ込むとやばいよ”と思うぐらい。組員はひたすら話をはぐらかす。でも、目の奥はけっして笑っていない。そこからカメラの前では絶対にいえないやばいものであることが確信に変わる。これはいわば攻めて押さえたスクープだ。
このスタッフの姿勢が物語るのは、そもそも取材対象および取材に制約などないことだ。本作は冒頭で取材の取り決めを組と交わしたことを明かしている。取材に関しての取り決めは3つのみ。1つ目は、取材謝礼金は支払わない、2つ目は、取材テープ等を事前に見せない、3つ目は、モザイクは原則かけない。そう、ヤクザに限らず、きちんとした過程を経れば、やればやれるのだ。ここに登場する組員たちはすべて実名で登場している。もちろん顔にモザイクはかかっていないし、音声に手が加えられることもない(※厳密に言うと、ひとりモザイクがかかって登場するが、それは彼自身が嫌というよりも、顔がばれるとそれこそ暮らしていけなくなるぐらいに家族に迷惑がかかるという理由から)。どんな相手だろうと対等に渡り合う。そうして撮られた映像は文句なしに力強い。間違いなく目を奪われる。そして、なぜ、これだけ危うさをはらんだ映像には何の映像処理もされないのに、報道番組どころか娯楽として一般の人が楽しむバラエティ番組にもいろいろとモザイクと音声処理がなされてしまうのか?そこに思いをはせたとき、実はいまの特に大手テレビ局に蔓延する元凶が見えてくる。