近年の「フランス映画」で異彩放つフランソワ・オゾン 『彼は秘密の女ともだち』の哲学的含意とは?
彼の作品の多くで中心的なテーマとなっているのは、「セクシュアリティ」の問題である。自らもゲイであることを公言し、劇中にも多くのゲイが登場することでも知られているオゾン。彼はステレオタイプな「女性/男性」の描き方に異を唱え、その内実に潜む深層的な「女らしさ/男らしさ」の問題やセクシュアリティの在り方を、その透徹したまなざしで描き出してみせるのだ。美少年の登場によって、自らの男性性に揺らぎを覚える大学教授をコミカルに描いた『危険なプロット』は、その典型と言えるだろう。そして、今回の『彼は秘密の女ともだち』である。
幼い頃からの親友を亡くし、悲しみに暮れるも、その墓前で彼女が残した幼き娘と夫を見守り続けることを約束する主人公クレール(アナイス・ドゥムースティエ)。しかし、ある日クレールは、亡き親友の夫ダヴィッド(ロマン・デュリス)が、女性の服を着て子どもをあやす姿を目撃してしまう。「この子には、まだ母親が必要なんだ」。苦し紛れの言いわけをしながらも、やがて「実は女性になりたい」という自身の率直な願望をクレールに告白するダヴィッド。戸惑いながらも、そんな彼を受け入れ、まるで「女ともだち」であるかのようにショッピングを楽しむクレール。もちろん、自分の夫には、ことの次第を告げることなく。しかし、そんな「秘密」の逢瀬を重ねるうちに、やがてふたりは惹かれ合い......。
ここで注意したいのは、この映画が「女性」と「ゲイ」の「友情」を描いた、ありがちな物語ではないということだ。ダヴィッドは必ずしも男性を性的対象としては見ていない(実際、彼には亡き妻とのあいだに幼き娘がいる)。彼は、「異性の服を着たい」という、いわゆる「クロスドレッサー(異性装者)」なのだ(オゾン曰く、異性装者の80%は異性愛者であり、そこに世間の誤解があるという)。「女性のように美しくありたい」――ただそう願うダヴィッドとのつきあいのなかで、自らも「女らしさ」に目覚め、ダヴィッドとともに美しくなってゆくクレール。ふたりはやがて、お互いを特別な存在として――誰にも言えない「秘密」を共有する特別な存在として、互いに意識し合うようになる。これは「恋」なのか? あるいは「友情」なのか? そして、真の「女らしさ/男らしさ」とは、いったい何なのか?
オゾン自身は本作について、次のように語っている。「我々の欲望は他の人の欲望に対する答えであることが多い。他人の欲望を糧にして自分が何者であるかを発見するんだ」。そこで思い起こされるのは、「人間の欲望は他者の欲望であり、他者から欲望されたいという欲望であり、何よりも他者が欲望しているものへの欲望である」とする、フランスの精神学者・哲学者ラカンの有名な言葉である。「女らしく/男らしく」あろうとすることは、果たして誰の誰に対する欲望なのか? 衣装からロケーションに至るまで、美学的に整えられたカラフルな世界のなかで、大胆な人間模様を描き出し、それによって我々の心の奥底に潜むセクシュアリティの問題や、その根源にある「欲望」をあぶり出してみせるオゾン。エンターテイメントとしての完成度と、フランス映画ならではの哲学的な問い掛けを見事両立させる稀有な監督として、近年その精度をますます高めているように思えるオゾンの映画を、断じて見逃してはならない。
(文=麦倉正樹)