第171回芥川賞候補5作品を徹底解説 向坂くじら「いなくなくならなくならないで」など個性的な作品並ぶ

 2024年7月17日(水)に第171回芥川賞が発表される。候補作に選ばれたのは、以下の5作品(50音順)。

・朝比奈秋「サンショウウオの四十九日」(『新潮』5月号)
・尾崎世界観「転の声」(『文學界』6月号)
・坂崎かおる「海岸通り」(『文學界』2月号)
・向坂くじら「いなくなくならなくならないで」(『文藝』夏季号)
・松永K三蔵「バリ山行」(『群像』3月号)

 2回目の尾崎氏以外は、初めてのノミネート。以下、候補作を順に紹介していく。

朝比奈秋「サンショウウオの四十九日」(『新潮』5月号)

〈私たちは、全てがくっついていた。顔面も、違う半顔が真っ二つになって少しずれてくっついている。結合双生児といっても、頭も胸も腹もすべてがくっついて生まれたから、はたから見れば一人に見える。今でも初対面の人は、私たちの顔を見た時、面長の左顔と丸い右顔がくっついたものとは思わない。結合双生児ではなく、特異な顔貌をした「障がい者」だとみられる。〉

 「塩の道」(2021年)で第7回林芙美子文学賞を受けてデビューした著者が初ノミネート。

 杏(「私」)と瞬(「わたし」)。20代後半の双子の姉妹をそれぞれ視点人物とする断章が交互に入れ替わりながら、父母と共に伯父の「四十九日」の納骨の法要に参加するさまが描かれる。かと思えば、本書には「小説ならでは」(そして著者ならでは)と言うほかない前代未聞の「仕掛け」が施されている。というのも、じつは「普通」の双子と思われた杏と瞬は、生まれながらに身体が結合された「結合双生児」なのだ。彼女たちのように頭部も胸部も腰部も結合した双生児が生まれるのは、250万分の1よりもさらに低確率だという。そんな彼女らが高校の頃、校外学習で訪れた博物館で目を惹かれたのが、白と黒の二匹のオオ「サンショウウオ」が、補い合い、かつ、食い合うように見える(自身らの似姿としての)「陰陽図」だった。

 著者はこれまで『私の盲端』(2022年)では「人工肛門」、『植物少女』(2023年)では「植物状態」、『あなたの燃える左手で』(2023年)では「手の移植」手術、と医者としての経験を存分に活かした小説を発表してきた。言うまでもなく、そこで描かれた人々の最も容易に見つかる共通点は、体の一部が(ときには全部が)自分の思い通りにはならない、ということだろう。本作中の言葉を借りて言うなら、「特殊な身体状況下にある人間」を描きながら、科学とも哲学とも宗教ともつかない壮大な思弁を繰り広げる本作は、われわれの狭隘な「人間に対する理解」を根元深くから刷新してくれる。ということはつまり、本作は、かつて「私」小説なるものを王道としたこの国の「文学」なるものに確かな罅を刻み込む作品だ。

尾崎世界観「転の声」(『文學界』6月号)

〈「俺を転売してくれませんか」/エセケンは黙ったまま、びくともしない。/「絶対に損はさせませんから、俺のバンドを転売してくださいよ」/エセケンの左手を両手で包み、祈るように握る。冷たい。〔……〕これが転売の手だ。価値ある物だけを見つけ出し、それを高める人の手だ。〉

 『母影』(2020年)で第164回芥川賞候補作に選ばれた著者が2回目のノミネートとなった。

 舞台は、「転売」に対する世間のマイナスイメージが変わり、転売に伴うライブチケットの「プレミア」化、価格の高騰にこそむしろ価値を見出すようになった社会。そこで注目を集めるのが、転売ヤーを多数抱えた、転売専門のマネジメント会社【Rolling → Ticket】だ。社を率いる「エセケン」なる男が手掛けたSNSアプリが通称「転の声」だ。

 そんな時代にあって、自分たちのライブにプレミアが付かずに悩んでいた4人組ロックバンドGiCCHOのボーカル・以内右手は、心酔するエセケンに自らの転売を依頼する。そして、彼が「新たな選択肢」として打ち出したのが、チケットを買ったけれど、ライブには行かない、という「無観客ライブ」だった。エセケンの仕掛けは、やがて業界人から数多くの一般人までも巻き込み、狂騒となっていく。

 全編にわたり独自の言語感覚から生み出されたパンチラインが散りばめられていて可笑しい。現在の音楽産業当事者である著者ならではのリアルな視点で、けれどもアイロニーとユーモアを巧みに交え、ファンダムカルチャーの功罪を描き出す野心作である。前回の候補作がその題材ゆえに否応なく、密室的で狭窄的なものとならざるを得なかったのに対し、今作ではよりスケールの大きな屋外のライブ空間、さらには、社会現象といったマクロな事象を描くことが目指されている。作中で以内が夏フェスのステージ上から目にする、観客たちが作り上げたサークルの「ぽっかり空いた穴」のごとく、大衆的欲望が生み出した熱狂の空虚な中心が明るみに出されるクライマックスは、恐ろしくも痛快だ。情報の奔流のなかで、主人公の以内が(そして、おそらく多くの読者も)見落としていた、ある「声」に気づくラストにもしてやられた。

坂崎かおる「海岸通り」(『文學界』2月号)

〈この町はわたし生まれた町じゃない。住んできた町でもない。海のある町だが、特段、海が好きなわけでもない。ずっと海のない場所で暮らしてきた。から、その水平線に憧れて、この町にわたしは流れ着いたのかもしれない。〉

 これまでに発表された「SF」(?)的な作品や「百合小説」をまとめた初作品集『嘘つき姫』(2024年)を上梓するなど、すでに多ジャンルに跨って活躍してきた著者の最新作が、初めて芥川賞の候補作入り。

 老人ホーム「雲母園」の庭には「海岸通り」と書かれた「ニセモノのバス停」が置かれている。家に帰りたがる認知症の入所者をいちどクールダウンさせるためのバス停だ。主人公は、その雲母園で週に3日派遣清掃員として働く「わたし」(「クズミさん」)。そんな「わたし」のもとに、ひと月前に辞めた前任に代わる新人としてウガンダ人女性のマリアがやって来る。初対面のマリアを見て「お、黒いな」という言葉を脳裏に浮かべ、恥ずかしがる彼女について「顔を赤くする。いや、たぶんしたんだと思う。よくわからんけど」と叙述する「わたし」は、決して「正しい」とは言えないアモラルな主人公/語り手である。そんな「わたし」は休日になると、87歳になる入居者の女性「サトウさん」のもとを訪れ、彼女の娘・ミサキを演じている。

 「わたし」とマリアと「サトウさん」。3人の女性の嘘に満ちた、だが、微かでも確かに存在した関係は、新型コロナウィルスの流行でさらに歪んでいく。老人ホームを退所することになった「サトウさん」の最後の望みは、海の見えない施設から抜け出し、「海を見に行くこと」だった。こうして「わたし」の憧れた海を、マリアの故郷にはない海を、サトウさんの望む海を見に行く計画が動き出きだす。

 作品の随所に充溢する「海」と「雲」(つまりは「水平線」)のイメージが心地良い。なるほど、他の老人ホームに比べ小ぶりだという「雲母園」に似て、ささやかな作品かもしれない。だが、本作を読み、その場所で生きる人々に触れた者には明らかなとおり、それは愛着を生む要因となりはしても、何ら価値を目減りさせるものにはなり得ないだろう。

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