円堂都司昭 × 藤田直哉『ポスト・ディストピア論』対談「多様化が進んで軋轢も多くなるという図式になっている」

実存的な主題としての「生と死」

川上未映子『夏物語』(文春文庫)

藤田:ジェンダーや生殖を扱ったディストピアものについての話につなげたいのですが、現代では、家父長制とか宗教的な信念とかイデオロギーが、女性に生殖をさせるために洗脳し縛り付けている仕組みではないかと告発するような作品が増えています。マーガレット・アトウッドの『侍女の物語』(1985年)や、窪美澄さんの『アカガミ』(2016年)がそうですね。

 それがディストピア的な洗脳だから女性は解放されるべきだ、結婚もせず、出産や育児をしないようにする自由を獲得するべきだ、というのがひとつの極にあり、それは反出生主義ともつながりを持っているかもしれません。それに対して、東アジアは特に顕著ですが、世界的に出生率の低下という問題は確かにあり、イデオロギーや洗脳かもしれないけど、そのような「物語」「規範」「イメージ」は共同体の存続のために必要なのではないか、という立場も顕在化してきています。人類の行方、個人の幸福、種の存在意義、みたいな、結構大きな問題に接続している主題ですよね。

 円堂さんが今回の本で生殖のテーマを論じる時に、葛藤しているのが伝わってきました。そこで論じている川上未映子『夏物語』(2019年)の登場人物も子どもを持つか、持たないかということで葛藤していて、そして最後に生むことを選ぶわけですよね。

円堂:僕の批評ではモヤモヤした書き方をしているでしょう。書いているうちに出口が見つかるのかなと思ったら見つからない。その迷路に迷っているような感じをそのまま書こうと思いました。

 私は「こういう主張です」とイデオロギーを打ち立てるタイプの書き手ではないんですよね。何か両論があった時に、どちらかを選んで主張するとわかりやすいんだろうけれど、そのようにくっきりとした主張を打ち出すことにリアリティを感じないんです。結局、その間のところで、ごまかしながらやっていくしかないじゃん、という感覚がある。ただ、『ポスト・ディストピア論』を読み返した時、自分は出産や子どもというテーマでやたらに書いてたんだな、と思うんです。

藤田:そこは本書の中で印象的でした。

円堂:何でここまで書くんだろうと思って。あとから気づいたのは、母親のことが関係していたということ。母は去年の1月に亡くなりましたが、その前の12月に産婦人科に連れていく必要があったんです。母が入居していたの介護施設によると、紙おむつに股間から出血が見られたとのことでした。施設と契約している産婦人科がないため、家族が連れて行って受診してほしいと言われたんです。

 産婦人科では母親を連れて診察室に入ったのですが、診察台の上で母親の体が姿勢を保てるように支えてほしいと言われて。その時に俺はこの人からこういう姿勢で生まれたのかと思いました。母親から生まれたということを、改めて考え直すような機会になったわけです。

 さらに言ってしまうと、小学校の高学年の頃に母親から、私を産む1年前に1人堕胎していたと聞いたことがありました。当時、体調が悪くていろんな薬を飲んでいたから、その薬害の影響もあったのかもしれません。当時は水俣病の胎児への被害報道もあったから、そういう懸念もあったのかもしれない。でも堕したといっても、私は翌年に生まれているわけです。そんな1年で体調が変わるか?とも思いましたけど、堕胎を繰り返せば子どもを産めなくなると考えたのかもしれない。

  母親に特に詳しい事情を問い詰めることはしませんでしたが、もし仮に兄か姉が生まれていたとしたら、自分は生まれてなかったのではないかと思います。経済的な状況もそうだし、父親が子どもをそんなに好きじゃなかったので。つまり、兄か姉がいたならば、むしろ私が堕されていたのかもしれない。『ディストピア・フィクション論』や『ポスト・ディストピア論』では、人間が交換可能な数扱いされてしまうことを論じましたが、そういう問題にこだわりを持つ根っこはそこにあるのかなと、母親が死んでいく過程に立ち会っていて思いました。

藤田:なるほど。以前の「ららほら2」の対談で、円堂さんが公害に興味を持たれており、ジャーナリズムの仕事もなされていたという話を伺いましたが、そのような関心の持ち方にもそのような出生に関わる実存的な問題が関わっていらっしゃるのかもしれませんね。本書の第一章で歌舞伎版の『風の谷のナウシカ』をかなり力入れて論じられていらっしゃって、汚染された世界における擬似的な親子、そして未来の子どもたちという問題を深く考えられているのは、そういういったわけだったんですね。

円堂:『ディストピア・フィクション論』でも『ポスト・ディストピア論』でも、私がナウシカを論じる時には必ず水俣病に触れているんですね。実際に宮﨑駿は水俣病の問題を踏まえています。

 これはたまたまなんだけど、母親と施設で最後の面会をして亡くなった日の直前に、川上未映子さんのインタビューに行ったんです。(参考:川上未映子の新境地『黄色い家』インタビュー 「人間のどうしようもないエネルギーを物語にしたかった」)『夏物語』の次の『黄色い家』(2023年)という作品の刊行記念でした。だから巡り合わせのようなものを感じて、余計に深く考えることになりました。『夏物語』のパートは、最初は入れるのは見送ろうと思ったけれど、後で追加したんですよね。

藤田:あってよかったと思いました。

円堂:『夏物語』は直接的にディストピアの設定ではありません。ただ、ご本人が出産というテーマをディストピアの設定にしないで書くのが私の意地だというようなことをインタビューで話していたので、その発言を読んでからはかえって『夏物語』には触れたほうがいいかなと思ったんです。

藤田:「生まない」のが、女性の自由であり、支配からの解放であるというロジックを理解しつつ、女性が産むという決断をする作品も目立つようになってきました。ディストピアとユートピアが反転し続ける『バービー』なんていうのは、現代に生きる「感じ」をうまく表している作品だと思いますが、そこでも赤ん坊を持つことの意味が問われていました。生まない選択をするものも、生む選択をするものも、どちらもあるということを示してあるのが良いと思います。

  昨今の批評は、自分の思想に合う作品をピックアップして、繋いで何かを論じるものも多いわけですが、論じながら自身の心情や信念を揺さぶられていない作品ってのは面白くないんですね。円堂さんは、どの立場にも肩入れしないで俯瞰的に並べて、ある時代の苦悩と論点を描き出すという手法を採られていて、一緒に悩んでいる。客観的で俯瞰的に見えつつも、そこに書き手の実存や「私」の問いが出てしまうという意味で、批評としか言いようがない一冊だと思います。

 そこで出てきてしまっているのが、今お話ししてくださった、「生と死」という問題系ですよね。「生と死」というのは、公的な空間における合理性を重視するリベラルな価値観において解決が困難な問題です。宗教とか右派の方が、ここは強いんですよね。生殖とか家族とか死が、宗教観や家制度的なものと結びつき、国家や権力構造とも心理的に切り離されにくい日本においては、単純に「公/私」を分割するリベラリズム的な前提は機能しにくいのでしょう。生殖や家族や生死の問題をも受け止めた思想や世界観を人間は持つ必要があるわけで、リベラル的価値観が一般化していく現在において、そこが時代の論点・争点にならざるをえなく、作家たちがそこを複雑に試行錯誤している必然性はよく分かります。……結局、出口や結論は見つからなかったと伺いましたが、書き終えてみて見えてきたことはありますか。

物語が語り継がれることが希望

中森明夫『推す力』(集英社新書)

円堂:私は子どもがいないのですが、未来に向けて何かを残すならば、それこそ言葉を伝えていくことに希望を持つしかないということですね。

藤田:中森明夫さんの『推す力』では、子どもがいない自分は推すことによって未来に希望を繋ぐというようなことが書いていました。自分が死んだ後にも続いていく世界に対する責任と愛着を持つと。その感覚を持つためには、必ずしも血の繋がった子供がいる必要はないのかもしれません。

円堂:先ほどの話のように、子ども時代に「自分が生まれてこなかったかもしれない」「もし死んでいたらどうだったのか」と考えて怖くなることがありました。そんな時に自分が救いとして見出したのは、物語が語り継がれていくということでした。

 当時、NHKの連続人形劇「新八犬伝」が好きで見ていました。これは馬琴の『南総里見八犬伝』をアレンジしているんです。それで子ども向け「八犬伝」を読んでいると、中国の「水滸伝」が元に書かれていると解説されていました。「八犬伝」は子ども向けだけで何種類も出ていたし、大人向けまで含めるとたくさんのパターンがありました。当時の人気時代小説家・山手樹一郎の『新編八犬伝』、 山田風太郎の『八犬伝』や忍法帖シリーズの『忍法八犬伝』などですね。

 物語がいろいろな形で語り継がれていくということに救いを感じました。永遠なのかはわからないけれど、一人の命の長さよりは長い時間、何かが受け継がれていく。それで自分は文章を書くようになったんです。

藤田:「死」によって、全てが消えて無意味になってしまうかもしれないという不安や恐怖に対して、遺伝子(ジーン)だけではなくて、文化的な遺伝子(ミーム)の継承こそが救いになるという感覚は分かる気がします。

円堂:私も今年で61歳だから、人生の終わりについてそろそろ考え始める時期でもある。

藤田:個人としても、死を意識すると、生の意味が必然的に問われるし、自分を生んで育てた親や先祖、それに連なる膨大な生命の歴史が、一体何だったのか、そして、苦労して働いて進歩させて人類は一体どこに行くのか、何の意味があるのかみたいな問いにどうしても辿り着いてしまうと思うんですよね。その辺りまで本当はしっかり考えないといけない気がするし、そこにディストピア的閉塞感と、互いに洗脳だと罵り合う状況を突破する可能性がありそうに思います。

 とはいえ、今の時代はまだ人生は30、40年あると思いますよ。80歳を過ぎても創造性がある方もたくさんですし。宮﨑駿さんも、年を取ってから新しい世界が見えてきた、分かってきたと興奮されていらっしゃいましたからね。

円堂:頑張るつもりでいますけどね。この仕事を始めた若い頃は、単著を10冊出すことを目標にしていました。今回の著作で達成できたので、15冊くらいまではいけるかもしれない。それを次の目標に頑張ろうと思います。

■書籍情報
『ポスト・ディストピア論: 逃げ場なき現実を超える想像力』
著者:円堂都司昭
価格:2,640円
発売日:2023年12月12日
出版社:青土社

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