書物という名のウイルス 第7回
感覚の気候変動――古井由吉『われもまた天に』評
書評とは何か。それは「書物の小さな変異株」を作ることである。書物はウイルスと同じく、変異によって拡大する。
批評家の福嶋亮大が、文芸書と思想書を横断し、それらの小さな変異株を配列しながら、21世紀世界の「現在地」を浮かび上がらせようとする連載「書物という名のウイルス」。第7回では、古井由吉にとって最後の小説集となった『われもまた天に』(新潮社)を評する。
第1回:《妻》はどこにいるのかーー村上春樹/濱口竜介『ドライブ・マイ・カー』評
第2回:《勢》の時代のアモラルな美学ーー劉慈欣『三体』三部作評
第3回:インターネットはアートをどう変えるのか?ーーボリス・グロイス『流れの中で』評
第4回:泡の中、泡の外ーーカズオ・イシグロ『クララとお日さま』評
第5回:承認の政治から古典的リベラリズムへ――フランシス・フクヤマ『アイデンティティ』『リベラリズムとその不満』評
第6回:メタバースを生んだアメリカの宗教的情熱――ニール・スティーヴンスン『スノウ・クラッシュ』評
《可能性感覚》という概念
小説は文学史上の新参者であるにもかかわらず、近代以降、詩や演劇を凌いで、またたくまに文学の中心を占めるようになった。21世紀になっても、われわれは文学と聞くとまず小説をイメージする。では、小説の優位性はどこにあったのか?
英文学者イアン・ウォットの古典的な研究書『小説の勃興』は、小説の画期性を「リアリズム」の刷新に認めている。ウォットによれば、中世のスコラ哲学の実在論者は、時代や地域を超えた普遍的なものに「真のリアリティ」を求めた。彼らにとって、人間のうつろいゆく感覚の捉えた具体的な事物は、あくまでエラーやノイズにすぎない。逆に、18世紀イギリスの作家たち(デフォー、リチャードソン、フィールディング……)はこのヒエラルキーを転倒させ、むしろ「真実は個人の五感を通じ、個人によって発見され得るという立場」を採用して、時間を超越しようとする中世的な伝統と訣別した。個人の感覚がたまたまキャッチした新奇な(novel)なものを高く評価する――そのような近代の精神風土が小説(novel)を飛躍させたのである。
個人の感覚(sense)を意味(sense)の根拠とするこの文学上のリアリズムは、今も健在である。例えば、村上春樹の小説には料理や食事の場面が「お約束」のように出てくる。それは一見して不要にも思えるが、そうではない。なぜなら、小説を書くことは、はかなく消えやすい五感に訴えながらリアリティをこつこつ積み上げてゆく、何とも地道な労働だからである。小説の体内には、いわば登場人物の感覚と読者の感覚を交信させるマイクロチップが多量に埋め込まれている。粗大な感情や大柄な認識のはるか手前でうごめいている微細な感覚――、それこそが小説の「地」(ground)なのであり、ストーリーやキャラクターはそこに浮かぶ「図」(figure)である。
2020年に亡くなった古井由吉の一連の小説は、この近代小説の根本的な仕組みそのものに働きかけようとする、実験的な「試行」(エッセイ)である。古井の小説においては、しばしば感覚という「地」が個体という「図」を凌駕するように、静かに着実に広がってゆく。そうなると、感覚は特定の誰にも帰属することなく、それ自体が一種のエコシステムとして繁茂し始めるだろう。しかも、その感覚があまりにも微細であるために、それが小説内で確かに起こったという読者の信念も怪しくなる……。
もともと、古井はドイツ文学者であり、特にオーストリアの作家ロベルト・ムージルおよびヘルマン・ブロッホの翻訳者として知られている。そのムージルの大作『特性のない男』には《可能性感覚》というユニークな概念が登場する。古井が言うように、それは「ありうることを、実際にあることより、軽くとらない能力、逆にいえば、実際にあることを、あるかもしれないことより、重くはとらない能力」を指している(『ロベルト・ムージル』)。この「かもしれない」の領域まで含んだ《可能性感覚》のコンセプトは、ムージルのみならず古井の文学そのものを説明するものである。
近代小説は「何かが確かに起こった」という現実感覚を積み重ねて、リアリズムの手法を成立させた。しかし、それが虚数的な《可能性感覚》に侵食されるとどうなるか。その場合、小説を読み進めるにつれて、感覚の亡霊が文章に乗り移り、リアリティの基盤そのものが虫食い状態になってゆくだろう(※)。古井の小説の「地」は、硬直した大地ではなく、起こったことと起こり得ることが網状にからみあったテクスチュアである。そこでは過去は過ぎ去らず、未来はいつまでも到来しない――あるいは同じことだが、何もかもが過ぎ去り、すべてが到来し続けるのである。
古井はこのような文学的実験に、半世紀にわたって注意深く、粘り強く取り組んできた。最晩年になっても、その作家的技量や認識の精度が衰えなかったことは、驚嘆に値する。その意味では、彼の人生そのものが、始まりも終わりもない「エッセイ」に似ている。これほどの徹底性を感じさせる小説家は、世界的に見ても稀だと言わねばならない。
(※)イアン・ウォットが強調するように、近代小説のリアリズムに先立って、すでにデカルトやジョン・ロックは主観性の原理に根ざした哲学革命を推し進めていた。18世紀の小説はその延長線上で、時の流れに巻き込まれた有限の個体を描こうとしたのである。それになぞらえれば、小説における感覚の解像度をぎりぎりまで引き上げようとした古井由吉は、デカルト的な「コギト」を間主観的な「モナド」へと展開したフッサールに対応するのではないか。この点は拙著『らせん状想像力――平成デモクラシー文学論』第二章参照。