戦後の静岡県二俣町で起きた冤罪事件、その真相は? ノンフィクション・ノヴェル『蚕の王』の凄み

 作家を執筆に向かわせる原動力になるものの一つに違和感がある。

 ふとしたはずみで持ってしまった疑問、自分の与り知らないところに理に合わないことが起きているという事実が作家の心を騒がせる。ことにそれが自分史に、あるいは生まれ育った土地にかかわるものだとすればなおさらだ。

 安東能明『蚕の王』は、静岡県二俣町(現・浜松市)出身の作者が、戦後間もないころに地元で起きた大量殺人事件に取材して書いたノンフィクション・ノヴェルである。1950年1月6日に起きた通称二俣事件は、一家族のうち四人がいっぺんに惨殺されるという凄惨なものであった。逮捕された容疑者は窃盗容疑で検挙された前歴のある、18歳の少年だった。静岡地方裁判所によって死刑判決が下され、控訴したものの東京高等裁判所からは棄却される。それでも諦めなかった被告関係者は有名弁護士の清瀬一郎にすがった。清瀬の働きかけが功を奏し、1953年に最高裁判所は静岡地裁に対して審理差し戻しを命じる。そこから少年の無罪が確定するまでには、さらに4年近い歳月を要した。無実の若者が7年もの人生の時間を奪われたのである。

 無実の人間がなぜ罪に問われ、死刑判決を受けるに至ったか。拷問が行われたからである。作者は物語の中心に一人の警察官を置く。赤松完治警部、数々の難事件を解決に導いたことから名刑事と讃えられたが、一方で捜査の過程で暴力的な手段を用いるという噂が囁かれ、〈拷問王〉の異名もあった人物である。日本警察で自白が重んじられる傾向は戦前からのものだが、物証を集めて論理的な仮説を積み上げるという科学的な手段よりも、現場の勘を優先するという悪しき経験主義の権化としてこの人は描かれる。ごく普通の刑事にすぎなかった男が、なぜ暗部を抱えた人間になっていったか。それを描くことも本作の主題の一つだ。赤松を始めとする登場人物は仮名で描かれているが、人間関係などはすべて現実のそれに基づいている。作者の狙いはあくまで現実に何が起きたかを問うことにある。

 二俣事件発生当時、日本の警察は揺れていた。敗戦によってそれまでの体制は解体され、一定以上の人口がある自治体にはおのおのの警察組織が置かれた。それ以下の人口しか有しない自治体のためには県単位の国家地方警察が設けられたが、戦前からの古株はこちらに多く残っており、多くの捜査では主導権を握ることになった。GHQは組織の再編成によって日本警察の民主化を図った。だが、それは絵に描いた餅になってしまったのである。拷問王こと赤松もまた、国家地方警察に属していた。

 赤松は親分肌で酒好きの一面もあり、部下との間にも強固な紐帯が存在した。事件現場で初めて彼と出会った自治体警察の吉村刑事も、あらかじめ聞かされていた噂とは裏腹な人当たりの良さに意外の念を抱いている。しかしその好人物が犯人を挙げるという目的に向かったときにはがらりと豹変するのだ。良き組織人が社会人として必ずしも真っ当ではないという皮肉な事実を赤松は体現している。吉村は現場検証の際に見聞した出来事から関係者の一人を真犯人と睨んで赤松に上申するが、あっさりと受け流される。事もあろうに赤松は、その関係者から賄賂を受け取っている節まであるのだ。

 容疑の薄い人間が逮捕され、拷問によって自白を強制されたことに義憤を感じた吉村は、ついに内部告発を決意する。だが、組織の罪をリークした人間はかつての仲間から始末される運命にある。日本組織において何度も繰り返された悲劇がここでも起きることになる。

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