老人のイヤイヤ期、脚フェチ、現実逃避……『恍惚の人』から50年、作家たちが描いてきた「老い」とは?

 日本の高齢化問題をいち早く取り上げ1972年にベストセラーとなった、有吉佐和子『恍惚の人』。認知症になった84歳の舅・茂造を介護する主人公・昭子とその家族の姿を描いた本作は、気の休まる暇のない在宅介護の苦労、女性ばかりが親の面倒を見させられる男性中心の社会構造、さらには現役世代の老いに対する拒否感をも浮き彫りとした。

有吉佐和子『恍惚の人』(新潮文庫)

 『恍惚の人』の登場から約50年、当時よりもさらに高齢化の進む社会で「老い」について考えると、相変わらず医療や介護の負担など重たい話題ばかり頭に浮かんでしまう。老いとは今までもこれからも、ネガティブなものでしかないのだろうか? 

 〈もうこの年になれば怖いもんなし、で、いやなことはしないのだ。仏壇のお守りもいや、法事もいや、ワビ、サビ、お茶、日本趣味もいや〉と語るのは、76歳になる元商売人の歌子さん。彼女の自由気ままな大人のイヤイヤ期を描いたのが、2019年に91歳で亡くなった作家・田辺聖子の連作小説「姥シリーズ」である。

田辺聖子『姥ざかり』(新潮文庫)

 その最初を飾る『姥ざかり』から、歌子さんはエンジン全開。早くに夫を亡くしてマンションに一人で暮らしながら、〈家にじっとくすぶってると恍惚の人に近づくのが関の山〉だと、習い事に海外旅行にホームパーティに住居侵入者退治にと忙しい。

〈毎日機嫌よく優雅に暮らしている七十六歳の美女に向って、「トシヨリはトシヨリらしゅう」とは何だッ!〉〈そもそも日本の男は、(略)女には二種類しかない、と思ってるのだ、若い女と、トシヨリの二種類なのだ。女個人の人となり、趣味、性向、値打ち、そういうものを弁別しようという気も更にないのだ〉

 世間体を気にしてばかりの息子たちや必要以上に老け込む同世代の人々への歌子さんの歯切れのいい物言いは、古い慣習や価値観の更新されない社会への批判として今読んでも痛快で頷くことしきり。ステレオタイプな老人観で漠然と老いを恐れてなんていたら、歌子さんに何を言われるかわかったものではない。

谷崎潤一郎『鍵・瘋癲老人日記』(新潮文庫)

 文豪・谷崎潤一郎晩年の作品『瘋癲老人日記』には、ポジティブとかネガティブを超越した老人の「性」が描かれている。〈生ニ執着スル気ハ少シモナイガ、デモ生キテイル限リハ、異性ニ惹カレズニハイラレナイ。コノ気持ハ死ノ瞬間マデ続クト思ウ〉。こう日記に記す77歳の老人・卯木督助は、同居する息子の嫁・颯子に好意を抱いている。体は衰え、性的な能力ももはや無い。老いた督助の性欲は、彼女の脚へのフェティシズムへと転化されていく。

 欲しいカバンや宝石を買う金を貢いで愛情を示す義父に対して、颯子は思わせぶりな態度を取りながら少しずつ欲求を満たしてやる。脚を触り、接吻し、興奮状態で上昇していく督助の血圧。体調の悪化と共にエスカレートする脚への執着は最後、驚くべき計画へと行き着くことになる。

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