萩原健太×澤部渡(スカート)「『ロンバケ』は過激なことをやってる」 大滝詠一の音楽が色褪せない理由

萩原健太×澤部渡、大滝詠一を語り尽くす

 大滝詠一と深い親交があった音楽評論家の萩原健太が、30年以上封印していたロングインタビューをもとに執筆した書籍『幸せな結末 大滝詠一ができるまで』(文藝春秋)。幼少期における音楽との出会い、はっぴいえんどでの活動、自ら設立した「ナイアガラ・レコード」、アルバム『A LONG VACATION』の大ヒット。貴重なエピソードが満載された本書は発売前後から大きな反響を集めている。

 リアルサウンドでは、萩原健太とミュージシャンの澤部渡(スカート)の対談を実施。『幸せな結末 大滝詠一ができるまで』を軸に、大滝詠一について語り合ってもらった。(森朋之)

大滝詠一の音楽は「教養」を求めるのか?

澤部渡

――まずは澤部さんより『幸せな結末 大滝詠一ができるまで』の感想を聞かせていただけますか?

澤部渡(以下、澤部):「とにかくめちゃくちゃ面白かった」ということに尽きますね。これは上手く伝わるかわからないんですけど、大滝さんの作品を聴いていると「これは聴く側にも教養を求める音楽だ」という感じがずっとあったんです。知識が追いつかないというか、「自分が大滝さんの音楽を上手く掴めないのは、勉強が足りないからだ」と思っていたところもあって。この本を読ませてもらって「それだけが大滝さんの音楽の聴き方じゃないんだな」とわかったし、聴こえ方も変わった気がします。

萩原健太(以下、萩原):インタビューをしていたときもそうなんだけど、大滝さんは、こちら側の熱量や知識に見合ったものを返してくるところがあったんです。大滝さんの音楽もそうで、リスナー側の受容する力によって聴こえてくるものが違ってくるというか。

澤部:勉強すればするほどわかってくるんですよね。後追いの立場からすると、考古学の世界というか(笑)。

萩原:僕はリアルタイムで大滝さんの音楽を聴いてましたけど、そのときから考古学的なニュアンスはありましたよ。新しい音楽ではあるんだけど、ちゃんと掘り返さないと、その背景にあるものはわからなかったので。

澤部:この本で初めて知ったことも多かったです。たとえば70年代初頭にはっぴいえんども出演していた「日本語のろっくとふぉーくのコンサート」を指して「『ろっく』とか『ふぉーく』とか、そこまでひらがなにして主張しなければ日本語でロックを歌うこともできない」と萩原さんが書かれているのを読んで、「そうだったのか」と気づいたり。

――いわゆる「日本語ロック論争」に関わる箇所ですね。ロックは日本語で歌うべきか? それとも英語で歌うべきか? という論争ですが、現代の人には何のことやら……という。

澤部:内田裕也さんと大滝さんの対談(雑誌『新宿プレイマップ』1970年10月号に掲載された「ニューロック」をテーマにした座談会)も読んだことがあるんですけど、結局よくわからなくて。

萩原:日本語で歌ってるポップミュージックはその前にもいっぱいあったんだけど、なぜか急に論争が始まったんですよね。そのあたりのことも本に書かせてもらったんだけど、わからない方もいらっしゃると思います。

澤部:そうかもしれないですね。

萩原健太

――大滝さんのファンの方がこの本を読めば、「そんなことがあったのか?!」の連続だと思います。反響はどうですか?

萩原:いろんな切り口で読んでくださってるみたいですね。音楽を作る人の視点で読んでくれる方もいるし、リスナーとしての大滝さんに着目してくれる人もいて。たとえば「ソングライターに注目することで気づいたことあった」みたいなことも語ってるじゃないですか、大滝さんは。あとは育児書みたいな読み方。大滝さんのお母さんの目線に立って、「ここまで子供を自由にさせるのはすごい」という(笑)。

澤部:なるほど(笑)。

萩原:「大滝さんがしゃべってるみたいでした」という感想もうれしかったですね。大滝さんの独特の口調だとか、冗談交じりに深いことを言う感じを文字にしたいと思っていたし、そこを楽しんでもらえてるとしたら何よりだなと。

澤部:本当に肉声が伝わってくるようでした。特に奥さんと付き合うくだりなんかは、目の前で大滝さんがしゃべってるような感じがあって。大滝さんにとって萩原さんは“打てば響く”方だったんだろうなと。

萩原:そうだといいんですけどね。

――レコーディングにも参加されてるのはすごいですよね。

萩原:リハーサルですけどね。とにかく緊張したし、ついていくのに必死でした。

澤部:レコーディングでのこだわりぶりは、僕も耳にしたことがあります。たとえばDのコードを鳴らすにしても「トップの音はこれじゃないといけない」とか、いろんな逸話があって。やっぱり厳しい方だったんですか?

萩原:そうですね。とにかく手癖を嫌ったんですよ。ユカリさん(ドラマーの上原裕)も、大滝さんの現場ではすごく苦労されていたようです。たとえば『A LONG VACATION』(1981年)に収録されている「Velvet Motel」のリズムパターンもかなりヘンでしょ。

澤部:ぶっとんでますよね。

萩原:右手、左手、左足、右足の本来の役割をズラすようなパターンになっていて。普通はできるわけないんだけど、ユカリさんは練習して叩けるようになっちゃう。

澤部:“蓬莱の玉の枝”ぐらいの無理難題に思えますけど、応えちゃうんですね。

萩原:そうすると「あ、できるんだ。じゃあ、次はこれ」って(笑)。普通に8ビートを叩くだけじゃ満足しないんですよね。この本のなかでも話してますけど、大滝さん自身がドラムをやっていたのが大きいのかもしれないです。

澤部:なるほど。学生のときに「こんな時、あの娘がいてくれたらナァ」のドラムとスネアが逆になってるようなアレンジを聴いて、「これは一体なんだ?」と思ったことがありました。

萩原:70年代のナイアガラ・レーベルは、実験の場みたいなところがあるからね。そこで試したことをポップな形で結実させたのが『ロンバケ』なんだと思います。キュートなポップアルバムとして聴いてる人がほとんどだと思うし、それでいいんですけど、解析してみるととんでもないことになってるんですよ。

澤部:超過激ですよね。

萩原:「君は天然色」のブリッジ部なんかも、全員で2拍3連のリズムを刻んでたりね。そういう凝り性なところはこの本にもたくさん書きましたし、それを踏まえてアルバムを聴き直すのも面白いと思います。

演出はしない、そうすれば偶然は訪れる

――澤部さんご自身も、大滝さんの音楽に影響を受けた部分があるのでは?

澤部:いろいろな面であると思います。大学(昭和音楽大学)で牧村憲一さん(音楽プロデューサー)が講師をされていて。授業で大滝さんの話になったときに、「Cider ’73 ’74 ’75」の〈あなたがジンとくる時は/私もジンとくるんです/サイダー/二人の中にサイダー〉という歌詞を引き合いに出して、「ポップスにおいては、母音の“あ”と“お”が大事なんだ」という話をしてくれたんですよ。大滝さんもそういうことを研究されていたんだなと知って、自分なりに母音のことを考えるようになったり。

萩原:大滝さんは70年代、歌詞をいったんローマ字にしていたんですよ。

澤部:え、そうなんですか?!

萩原:言葉の意味とは関係なく、アルファベットをずらっと並べてメロディに当てはめていたみたいで。たとえば〈ふと眼があうたび〉(「恋するカレン」)を「ふと眼が うたび」って歌ってるでしょ? つまり〈あ〉がなくなってるんだけど、〈眼が〉の最後の母音が“A(あ)”だから、〈あうたび〉の〈あ〉は省いてもいいだろうという。

澤部:ものすごく英語的な発想ですよね。

萩原:桑田佳祐のように日本語を英語みたいに歌うのとはまた違うやり方というか。この話、本に書いてないんですけど。

澤部:すごい! 70年代の大滝さんは、リズムに対するアプローチも凄まじいですよね。『NIAGARA MOON』(1975年)、『GO! GO! NIAGARA』(1976年)、『NIAGARA CALENDAR』(1977年)と作品を重ねるごとにどんどん実験的になって。はっぴいえんどで一緒に活動していた細野晴臣さんとはだんだん枝分かれしていった印象もあります。

萩原:大滝さん、細野さん、それから山下達郎さんもそうだけど、それぞれの持ち味があるなかで「自分はどっちに行こうか」と考えていたと思うんですよね。鈴木慶一さんもそうでしょ。慶一さんがはちみつぱいをはじめたとき、はっぴいえんどがすでにBuffalo Springfieldを参考にしていたから、「じゃあ、俺たちはこっちを……」とGrateful Deadをやることにしたっていう話もあって。そうやって競い合っていたからこそ、あれだけの個性がひしめき合っていたんじゃないかな。

澤部:いろんな偶然も重なってますよね。

萩原:それを演出しちゃダメっていうのも大滝さんの考え方だったんですよ。期待したり、演出しちゃうと偶然は訪れない。深いですよね。

萩原健太『幸せな結末 大滝詠一ができるまで』(文藝春秋)

――それはリーダーシップを取らないというスタンスにもつながっているんでしょうか?

萩原:そこは微妙なところですね。自分の思い通りにはしたいんですよ、大滝さんは。

澤部:そうですよね。

萩原:直接「こうしろ」と言うこともあるんだけど、それよりも自然にそういうムードになるように仕向けるというか。

澤部:はっぴいえんどに関して言うと、この本のなかで大滝さんが「はっぴいえんどは細野さんのバンド」って言い切ってるところがあるじゃないですか。あれはかなりゾクッとしました。

萩原:細野さんがやりたいことを実現するためにバンドに加わったところはあったでしょうね。それまで聴いていたものとは違う音楽に寄りながら曲を作ったり。一方で「最終的にバンドをプロデュースしていたのは松本隆じゃないか」という発言もあるし、大滝さん独特の捉え方があったんだと思います。

澤部:1985年の再結成ライブ(1985年6月15日、東京・旧国立競技場にて開催された『国際青年年記念 ALL TOGETHER NOW』で、はっぴいえんどは12年ぶりに一度限りの再結成ライブを行った)もすごく好きなんですよ。もっと評価されるべきライブだと思うし、あのときの話も聞いてみたかったんです。大滝さん、何かおっしゃってませんでした?

萩原:まあ、少しはね(笑)。

澤部:……失礼しました(笑)。

萩原:いえいえ(笑)。あのときは大滝さんも楽しんでたんじゃないかな。ライブを記念する特番を1カ月間、毎週1本ずつやったんです。そのなかでメンバー4人が揃って話をする回があって。岡林信康さんが電話してきて、みんなで話をしたんだけど、すごく和やかだったんですよね。それぞれに思うところはあったでしょうけど、それを越えてしまう何かがあの顔ぶれにはあって。

澤部:会ってしまえば……っていう。

萩原:そうですね。

澤部:あのライブはいろんな意味で象徴的だと思うんですよね。ロックな感じもありつつ、テクノポップとか、その後のJ-POP的な感性もすでにあるような気がして。

萩原:最後の曲が「さよならアメリカ さよならニッポン」だったんですが、大滝さんが「Sing a song, children.」と呼びかけて、ピチカート・ファイヴやSHI-SHONENのメンバーなどがコーラスして。あれは美しい世代の交換でしたね。大滝さんは「レイ・チャールズの真似しただけ」って言ってましたけど。

澤部:大滝さんの歌い方、あのときもビンクロ(ビング・クロスビー)でしたよね。

萩原:クルーナーだよね。音のことは細野さんに任せて、大滝さんは歌う存在としてステージに上がったというのかな。あとは「はっぴいえんどです」というMCですよね。バンド時代はライブが始まったときに「はっぴいえんどです」と大滝さんが言うのが決まりだったんですよ。1985年もそれをやったんだけど、あの言葉を聞いて、スタンドで失神したファンがいたらしいです。

澤部:オリジナル活動期のライブ音源に「はっぴいえんどです」という大滝さんの声はあまり入ってないですけど……そうか、あれは毎回言ってたんですね。初めて知りました。衝撃です。あの言葉の重みが変わりました。

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