佐野元春が体現する“音楽のマジック”、ロックで届け続ける変わらぬ意志 「今井智子 ロックスターと過ごした記憶」Vol.6

音楽が佐野元春を牽引する――“再定義”に至ったアティテュード

 この作品では、活動をともにして20年になるTHE COYOTE BANDと初期の代表曲を新たなアレンジ&解釈で録音した。それを佐野は“再定義”と表現し、「これはセルフカバー・アルバムじゃない。オリジナル盤と匹敵するくらいのコンセプチュアルな作品だ。これまでのファンだけじゃなく、新しい世代の音楽リスナーにも聴いてほしい」と言っている(※1)。“元春クラシックス”と呼ばれる楽曲を未来を担う新たな世代に届けたい、ということだろう。伝達手段としての表現はアップデートされリフレッシュされているが、45年前から佐野が発しているメッセージは変わらない。10thアルバム『フルーツ』(1996年)リリース時のインタビューで、自身の創作活動をこのように説明している。

「僕はシクスティーズやアーリー・セブンティーズの音楽を聴いて育って来たせいか、音楽の持っているマジックや音楽の持っている力というものを、どこかでまだ信じているんだね。だからそのマジックや力を他の人のためではなく、自分のためのいい風に使いたいと思っている。自分が作り出す音楽は、曲も詞も含めて佐野元春という僕個人を牽引していくもの。自分が作り出したものに引っ張られるなんて変な話だと思うかもしれない。でも本当なんだ。時には、こんな時代だから自分のケツをひっぱたくような曲が欲しくなる。ヒットチャートの曲を聴いてそんな曲がないとしたら、自分で作るしかない。そんな感じかな」(※2)

 今回の“再定義”も、こうした姿勢からきているのだと思う。

「ガラスのジェネレーション (Slow Version)」佐野元春 with THE HEARTLAND
【2025年版】つまらない大人にはなりたくない (ex - ガラスのジェネレーション) 佐野元春 & The Coyote Band

 “再定義”された曲に、1980年10月にリリースした2ndシングル曲「ガラスのジェネレーション」がある。佐野は“再定義”によって、まず曲のタイトルを変更した。歌詞の中のパンチライン「つまらない大人にはなりたくない」をそのままタイトルにしているのだ。これは佐野を象徴するワードとして広く知られてきたが、オリジナルでは若く繊細な世代の新たな感性を表すワードとして「ガラスのジェネレーション」をタイトルにしたのだろう。力強くコードを弾くピアノから始まるオリジナルバージョンでは、若々しい躍動感に溢れる佐野の歌が輝いている。“再定義”バージョンは華やかなストリングスでドラマチックに幕を開け、佐野は落ち着いたトーンで歌っている。重要なフレーズである〈つまらない大人にはなりたくない〉について佐野はかつてこう言った。「つまらない大人になってしまった人が“つまらない大人にはなりたくない”と言ったときに、それはインチキになってしまう」(※3)。45年を経てこの曲を取り上げたのは、佐野自身が“つまらない大人”になっていないという自負と思っていいだろう。そして、今まさに「つまらない大人にはなりたくない」と思っている若い世代に向けて歌いかけているのだ。インタビュー(※4)でこんなことを言っていたことがある。

「音楽はね、どのジェネレーションにも受け入れてもらえる、いい表現なんですよ」

佐野元春と出会った1980年 ポピュラーミュージックと向き合う意味

 私が佐野を新宿のライブハウス・ルイードで見るようになったのは1980年。横浜を拠点に活動しているイカしたヤツがいるとの噂とともに1stアルバム『BACK TO THE STREET』(1980年)を聴いて、今までにないシンガーソングライターが現れたと思った。それからまもなく彼はルイードで定期的にライブを行い、佐野元春 with THE HEARTLANDと名乗るようになった。アルバムのアレンジを担当した伊藤銀次(Gt)をバンマスに、古田たかし(Dr)、小野田清文(Ba)、阿部吉剛(Key)、ダディ柴田(Sax)という布陣だ。ライブの終盤で必ずメンバー紹介をし、Eストリート・バンドを紹介する時のブルース・スプリングスティーンばりに「そして最後に!」とダディ柴田の名を呼ぶのがお約束だった。当時のライブハウスは大抵そうだったが、ルイードのステージも床からわずかしか高さがなく、テーブルと椅子が並ぶカフェのようなしつらえで観客は座ってライブを観るのが通常だった。そこで佐野は「アンジェリーナ」をはじめ、熱っぽいロックンロールを演奏して観客を総立ちにさせていたのだが、ステージが低いので観客が立ち上がると後ろの人たちからは見えなくなる。そこで佐野はテーブルの上に乗って演奏するというアグレッシブなライブをやるようになっていた。テーブルの上でジャンプした拍子に天井のライトにギターのネックが当たり割れてしまった、というアクシデントが語り草になっている。

「アンジェリーナ」佐野元春 with THE HEARTLAND(LIVE)

 そんなライブの中で、佐野がピアノの弾き語りで歌う「情けない週末」は彼の別な一面を感じさせる曲だった。〈もう他人同士じゃないんだ〉という大人びた歌い出しは、純愛めいたことを歌う若いシンガーソングライターが多かった中で新鮮な視点だった。さらに〈<生活>という うすのろがいなければ/街を歩く二人に/時計はいらないぜ〉と現実と夢を対比するのも生々しい。子供っぽいナイーブさを歌うのではなくひとりの人間としての視点を描くことで、“つまらない大人”たちとは違う“大人”になるための準備を、これらの歌の登場人物たちはしているように思ったものだ。それは歌っている佐野であり聴いている私たちだった。3rdアルバム『SOMEDAY』(1982年)がヒットした頃を思い返すと、彼はこんなことを言っていた。

「最初のアルバム『BACK TO THE STREET』をレコーディングしているときに思ったのは、ロックンロールやポップス、いわゆるポピュラー・ミュージックをやってくのは、僕にとって一番ストレートに、ダイレクトに、自分のことを他人に伝えるメディアだということ。そして、僕はそれを通じて何かを掴みたいと思ったんだ」

佐野元春「サムデイ」MUSIC VIDEO

 『SOMEDAY』のヒット、大滝詠一・杉真理との『NIAGARA TRIANGLE Vol.2』(1982年)などで佐野は広く注目を集めるようになり、全国ツアーも軒並みソールドアウトといった状況になったのだが、1983年にニューヨークに渡ってしまう。普通なら成功をさらに手堅いものにするべく全国ツアーを重ねたりメディアの取材を受けたりするところだが、佐野はあっさり渡米した。だが1981年から続いていた『サウンドストリート「元春レイディオ・ショー」』(NHK-FM)はニューヨークで録音して続けていたことでファンとの絆は繋がっていたと言えよう。そして1年ほど暮らして4thアルバム『VISITORS』(1984年)を完成させる。まだ黎明期だったヒップホップを取り入れた作品は驚きをもって迎えられたが、同じ頃にニューヨークに行く機会があった私は、あの街のエネルギーをダイレクトに日本に持ち込んできた、とワクワクしたものだ。これも振り返れば佐野自身の“再定義”だったのかもしれないと思う。日本語をロックンロールのビートに乗せることは、佐野や桑田佳祐にとって重要なポイントだった。それまでは歌はスムーズにメロディに乗るのが定石だったからだ。佐野にとってヒップホップは言葉とビートの新しい関係を示すもので、ロックンロールやエバーグリーンなポップソングに同時代の息吹を吹きこむ最善のヒントになったのだろう。「COMPLICATION SHAKEDOWN」の歯切れの良さは痛快だ。だが、ヒップホップをサウンドスタイルとして取り入れていたし、その思想はリアルタイムで吸収していたけれど、佐野が急にadidasで全身を包んだわけでもなかったし、アティテュードも以前と変わることはなかった。必要なことはアップデートするが基本は変わらない。このあたりが佐野の矜持だろう。

佐野元春「コンプリケイション・シェイクダウン」(LIVEフルバージョン)

The Hobo King BandからTHE COYOTE BANDへ ミュージシャンを巻き込む“嗅覚”

 5thアルバム『Cafe Bohemia』(1986年)はジャズやソウルミュージックを取り込み、パリやロンドンの雰囲気を感じさせる作品になった。カフェ・ボヘミアは1950年代のニューヨークに実在したジャズクラブで、その店名がタイトルのヒントになったようだ。この作品に収録された「インディビジュアリスト」が「自立主義者たち」とタイトルを変えて“再定義”された。この作品をリリースした1986年に佐野は自身のレーベル M's Factoryをスタートさせる。〈風向きをかえろ〉と最後に歌うこの曲は、佐野の自立宣言でもあったのだ。この曲を再定義することで、SNSなどで同調圧力があからさまになっている現代に、佐野は改めて一人ひとりが自立することを呼びかけている。意外だが『Cafe Bohemia』はTHE HEARTLANDとレコーディングした初の作品だった。これ以後『Time Out!』(1990年)、『Sweet16』(1992年)、『The Circle』(1993年)をともに制作し、1994年の横浜スタジアム公演を最後にTHE HEARTLANDは解散した。そのライブドキュメント『LAND HO! 横浜スタジアム 1994.9.15』が31年後の今年9月15日に全国26都市の映画館で上映され、10月1日には完全版Blu-ray(特製ボックスセット)となってリリースされた。デビュー当時から活動してきたバンドとともに佐野は成長してきたのだと、この約3時間に及ぶドキュメンタリーを観ると思う。かつて〈つまらない大人にはなりたくない〉と歌った佐野が「僕は大人になった」(『Time Out!』収録)と歌ったのは、自身とバンドの成熟を感じていたからかもしれない。

 THE HEARTLAND解散後、しばらくは新たなバンドメンバーを探していたようだ。INTERNATIONAL HOBO KING BANDと名づけたバンド(佐橋佳幸/Gt、小田原豊/Dr、井上富雄/Ba、KYON/Key、西本明/Key)に東京スカパラダイスオーケストラのスカパラホーンズ(NARGO/Tp、北原雅彦/Tb、GAMO/T.Sax、谷中敦/B.Sax、冷牟田竜之/A.Sax)とコーラスのセクストン姉妹(メロディ・セクストンとサンディ・セクストン)を加えた編成でツアーを行ったのが1996年1月。このバンドは10thアルバム『フルーツ』に参加し、スカパラ・ホーンズとコーラス以外の5人はThe Hobo King Bandとして、佐野のライブとレコーディングをサポートしていくことになる。5人はすでに様々なアーティストのサポートをして定評のある面々だったから、あらかじめ完成度の高いバンドだったことは言うまでもない。THE HEARTLANDと演奏してきた曲たちにも新たな解釈が加えられ、全体に落ち着いた雰囲気というか円熟味を感じさせるものになっていた。このバンドとともにジョン・サイモンの協力を得てウッドストックで制作した11thアルバム『THE BARN』(1997年)は日本のロックアルバムの中でも出色の作品だと思う。The Hobo King Bandとの活動は、1970年代に多彩に広がり充実していったロックの厚みを追体験し、アメリカの伝承音楽の今日的解釈であるアメリカーナへの理解を深めることにもなっているようだ。ただ多忙な面々だったことや、佐野がプライベートスタジオでコンピューターを使った録音にトライし始めたことからレコーディングの機会は少なかったが、THE COYOTE BANDがメインとなっている近年の佐野も年に何度かThe Hobo King Bandとはライブを行っている。

 THE COYOTE BANDは2007年のアルバム『COYOTE』に参加した高桑圭(Ba)、深沼元昭(Gt)、小松シゲル(Dr)からスタートした。高桑がいたGREAT3、深沼が在籍するPLAGUESはデビュー当時から佐野が注目していたバンドで、PLAGUESは『フルーツ』に参加しており、世代に関わらず同じ趣向の人間を見出す佐野の嗅覚の発露と言えようか。熟練のThe Hobo King Bandとは対照的に90年代以降のオルタナティブロックを体現してきたメンバーとの活動が佐野に新たな刺激を与えたことは想像に難くない。“再定義”が可能になったのは楽曲に対するこのバンドならではの演奏があったからでもあろう。そのTHE COYOTE BANDとの活動も今年で20年となり、冒頭に書いたように佐野のデビュー45周年を記念する全国ツアーが行われている。そのファイナルは佐野にとってのスタート地点である横浜で、かつては横浜文化体育館だった横浜BUNTAIで行われる。

佐野元春 & THE COYOTE BAND

未来へ続く佐野元春の歩み、ポップミュージックへの“恩返し”

 佐野の45年間の活動を振り返ると、ここまで書いてきた音楽活動だけでなく、個性的なラジオDJを務めたり、自ら雑誌『THIS』を主宰し出版したり、また楽曲を歌うだけでなくポエトリーリーディングというパフォーマンスにしたりと、多岐にわたる表現をしてきている。ラジオや雑誌はいまやオールドメディアと言われるが、佐野自身がこうしたメディアから若い頃に大いに影響を受けてきたように、リスナーや読者に彼が触れてきた音楽や情報を伝えたいという思いがあるからだ。また彼の音楽においてこうしたフィジカルなメディアは楽曲やレコードと同様に重要で、2ndアルバム『Heart Beat』(1981年)リリースにはペーパーバックサイズのブックレットを作り未発表の詩などを掲載していた。それは『SOMEDAY』のインナースリーブが、切り取り線通りに組み立てるとブックレットになるという形で受け継がれ、さらに雑誌『THIS』へと繋がっていく。この雑誌は彼が大いに影響を受けたビートニクの検証を軸に、GREAT3など注目する若いバンドにスポットを当てたりストリートアートを取り上げたりした斬新な内容だった。多様なメディアを通じて佐野は「ポップミュージックへの恩返し」をしてきたのだと思う。

「アンジェリーナ」佐野元春 & THE COYOTE BAND (LIVE)
「エンタテイメント!」佐野元春 & ザ・コヨーテバンド

 『HAYABUSA JET I』について佐野は「“ハヤブサ・ジェット” はデヴィッド・ボウイのジギー・スターダストやジョン・レノンのウィンストン・オーブギーのような存在、僕のアバターだよ」(※5)と言っているが、佐野元春という存在自体がポップミュージックをクリエイトし、ポップミュージックに恩返しをするためのアバターなのではないかと思う。それは豊かな音楽の道しるべであると同時に、冷静な目を見開くための羅針盤でもある。『HAYABUSA JET I』のブックレットには、こんな文章が載っている。

「僕の記憶が正しければ 彼の忠告はいつも疑わしく いつも正しかった もし、どこかでハヤブサ・ジェットに出会ったら よろしくと伝えてくれ」

 ボブ・ディランの「彼女に会ったら、よろしくと」を連想する言葉で締めくくっているのが佐野らしい。彼のこういうところがファンの心を掴むのだ。

 12月には『HAYABUSA JET Ⅱ』がリリースされる。タイトルに数字がついていることからシリーズ化は予感していたが、次作が思いの外早く完成したのは、THE COYOTE BANDとの20年に及ぶ活動で、それ以前の曲の多くをライブで演奏してきたことが“再定義”へと繋がっているからだろう。再定義は佐野の足跡を確かめると同時に、それが未来へと続いていくことを示している。彼とともに未来へと進んでいきたいと思う。

※1、5:https://www.moto.co.jp/features/hayabusajet_I/
※2:『MUSIC MAGAZINE』1996年8月号
※3:『佐野元春 ザ・コンプリート・アルバム・コレクション1980 - 2004』ブックレット
※4:『WHAT's IN?』2015年9月号

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