ヒグチアイの赤裸々な言葉が現代を生きる我々にもたらすもの――6thアルバム『私宝主義』クロスレビュー

「なぜ“本当”を口にすることにためらいがあるのだろう」(奈都樹)
ヒグチアイの歌には圧倒されてしまう。彼女が歌い出すと途端に、その言葉たちは鍵盤や弦から飛び出して勢いよくこちらに迫ってくる。まるで脳内に隕石が絶え間なく降ってくるようなもので、私はしばしばその言葉をうまく受け取れずにいた。どれだけやわらかいメロディだろうが、やわらかい歌声だろうが、彼女の歌そのものにはこちらがたじろいてしまうほどの力強さがある。そして最新アルバム『私宝主義』は、その真骨頂ともいえるだろう。冒頭から打ちのめされる。
〈ださいださいださい〉〈弱い弱い弱い〉〈つらいつらいつらい〉〈痛い苦しい〉
1曲目「わたしの代わり」は「ヒグチアイが自分の心に正直に向き合って書いた」という“独り言”三部作の一つで、なかでもこの曲は彼女の葛藤が剥き出しになっている。ペンを紙に激しく打ちつけて書いたような荒々しさ、混乱して自制が効かなくなった感情の吐露。耳元で聴いていると少し動揺する。その動揺を隠すためについ笑って誤魔化したくもなってしまう。しかしこちらがどうであろうが、ヒグチは連呼する。〈ださいださいださい〉〈弱い弱い弱い〉〈つらいつらいつらい〉〈痛い苦しい〉と。
なんだか「あなたはちゃんと“本当”に向き合えているのか」と問いただされている気分になってくる。「なぜ彼女はここまでストレートにこんなことを歌えるのだろう」と考えていると、次第に「では、なぜ私はこうした言葉を口にすることにためらいがあるのだろう」という疑問が湧いてくるのだ。
続く「花束」はさらにはっきりと投げかける。瑞々しく穏やかなピアノの旋律の中で、言葉が攻めてくる。今度は“幸福”について。
〈このまま、ないものを探して/足りないことをいつも嘆いて/正しいことだけを求めて/不幸を纏って生きていくの?〉
〈このまま、憎しみを抱えて/優しさをいつも疑って/あなたがいることを忘れて/孤独に見せて生きていくの?〉
無論、ヒグチは自分自身に問いかけている。とはいえビブラートを限りなく削いだ骨太な歌声が、そうは思わせてくれない。「あなたはどう?」そんなふうに聞こえてくる。
このアルバムを聴くのなら、立ち止まってじっくりその歌に耳を傾けなければならない。世の理を知った今の心境を歌う「バランス」、ひとりの女の諦念と悲哀を描いた「一番にはなれない」、人間の善悪について考えを巡らせる「静かになるまで」……本作にはさらっと流してしまえる曲がなく、たとえばSNSをぼーっと眺めているときなんかには聴けない。何らかの投稿が気になって文句をつけたくなっても、その横で鳴るヒグチの言葉が気になって手が止まってしまうだろう。本作における彼女の歌は、常に自分自身と聴き手の内側に向けられている。時に静謐で、時に厳かで、時に鮮彩なアレンジメントもまた、彼女の言葉の重量を底上げしていて、聴き手に他のことを考えさせる隙を与えない。
『私宝主義』と名づけられた本作には、35歳となった彼女が「これが人生だ」と断言するような凄みがある。ださく、弱く、つらく、痛く、苦しいものなのだよ、と教えてくれる。それを受け入れた上でどうやって前を向いていこうかと考えさせる。そうやって、考えて、考えて、考えた先に、アルバムのラスト「ぼくらが一番美しかったとき」にある〈夜を越え〉る瞬間があるのだろう。
私たちには自分自身が抱えている悲しみについて考えることが求められている。だから正直に言えば、本作をちゃんと聴くまでに少し時間がかかってしまった。日常は自分の無力さを突きつけられることばかりで、それでいていつだって目まぐるしいほどに忙しく、そんな中で悲しみと向き合う余裕というものは失われているから。
ゆえに現実から逃避するように普段は、夢に浸れる物語、無心で聴ける音楽、そればかりを求めてしまうのだろうけれど、しかし同時に、自分自身の人生を肯定することからも逃げているともいえるのかもしれない。ときにそれはほんの一瞬の休息として必要なことではあるけれど、では果たしてそればかりに慣れてしまっていいのだろうか。『私宝主義』という作品が、ヒグチアイという存在が、今、私にそんなことを考えさせている。(奈都樹)























