加藤登紀子、デビュー60周年でたどり着いたヒット曲の真理 「曲が良い悪いじゃなくて……」

加藤登紀子、60周年に至る様々な出会い

 それは60年の時をかけて紡いだ、一人の歌手の生きざまと、時と共に育つ歌の物語。今年でデビュー60周年を迎えた歌手・加藤登紀子が、5月の企画アルバム第一弾『for peace』に続き、第二弾となる『明日への讃歌』を10月29日に発売する。DISC1は「出会い物語」、DISC2は「恋話」というタイトルを付けた2枚組CDで、「知床旅情」「百万本のバラ」「難破船」「時には昔の話を」など代表曲に加え、CD未収録だった珍しい曲、ジョン・レノンの「Imagine」のカバー、ロックバンド・SUPER BEAVERの「幸せのために生きているだけさ」のカバー新録音など、ジャンルを越境した幅広い音楽性を網羅する全35曲。『for peace』と合わせて、まさに60周年記念にふさわしい豪華盤だ。

 12月には恒例の『ほろ酔いコンサート』で6都市7公演を行い、12月27日には82歳の誕生日を迎える加藤登紀子。日本のポップス変遷史そのものと言っていいほど濃密で、波乱万丈な60年の歩みについて雄弁に語る、“おときさん”の言葉に耳を傾けよう。(宮本英夫)

ポップス黎明期、加藤登紀子がデビューした激動の時代

加藤登紀子

ーー歌手デビュー60周年、おめでとうございます。短い時間ではとても語り切れないと思いますが、振り返って、どんな日々ですか。

加藤登紀子(以下、加藤):この60年間、日本の状況は面白かったですね。どんどん変わっていく、私はいつもその変わり目にいるんですよ。デビューが1965年なんだけど、64年が東京オリンピックで、まだ日本は外国に自由に行けなかった。それがオリンピックをきっかけに開かれて、エールフランスが主催したシャンソンコンクール(1965年の第二回大会で加藤登紀子は優勝)があったということは、私は子供(?)だからわからなかったけど、大人の事情はそうだったわけ。

ーー優勝したら、ご褒美がヨーロッパ旅行でしたっけ。

加藤:そう。ハンブルク、パリ、ローマの1週間。1ドルが360円の時代ですよ。前に誰かから聞いたのだけど、当時ハワイ旅行に300万かかるという時代だったから、とてつもない大サービスなわけ。そういう、時代の変わり目にいちいち出会っていて、デビューするちょっと前に民放テレビ局が次々できたとか、そういうものと繋がるんですね。音楽業界も、今回のベスト盤には入れてないけど、「赤い風船」(1966年)っていう曲でレコード大賞新人賞を受賞した時も、演歌の大全盛時代だったわけです。荒木一郎さんというシンガーソングライターの草分けの方が、自分の曲でヒット曲を飛ばしていましたけど、彼と私が新人賞を受賞したんです。

ーーシンガーソングライターの時代のさきがけですね。

加藤:あの頃はね、自作自演って言ってたの。それで、「君といつまでも」を自作した加山雄三さんが特別賞だった。こういう話をしていると、話題が多すぎちゃうから、全部書かなくていいからね。

ーーわかりました(笑)。

加藤:一つ言えるのは、あの頃はとても面白い時代だったということ。「死んだ男の残したものは」という、谷川俊太郎さんが作詞された曲が『for peace』に入っているんですけど、あの方たちの世代は終戦が10代半ばで、私は終戦が1歳で、私より10歳ぐらい上の世代がとても面白かったんです。テレビが始まったばかりで、イラストレーターの横尾忠則さんが朝の番組に出たりして、アンダーグラウンド的なものが世の中を引っ掻き回してた。そういう人たちがいたっていうことが素晴らしいよね。

ーー音楽も芸術も文学も映画も、変革期だった。

加藤:古い社会もちゃんとあるんだけどね、映画会社は5社しかなくて、レコード会社は6社ほどだったかな。それで、新人が会社から毎年一人ずつ出るんです。それがテレビに出て一緒に歌ってるから、森進一さんと一緒にいつも出演してる、みたいな感じでしたよ。そして何年か経った時に、劇的に出会ったのがアンダーグラウンドフォークの遠藤賢司。私が所属していたポリドールレコードで“ポリドール祭り”というのがあって、1年にいっぺん所属アーティストが歌う場があって、そこに遠藤賢司が出てきたの。私は一応歌謡曲歌手だったから、すごいギャップだったんだけど、本当に素晴らしかった。それで、遠藤賢司の担当ディレクターをつかまえて、「あなたとやりたい」って言ったわけ。それが72年のこと。

ーー当時のポリドールだと、井上陽水さんがデビューした頃ですね。日本のフォークとロックがオーバーグラウンドに浮上していく時代。

加藤:私はいつも変わり目に居合わせて、それがすごく面白かったですね。そのあと結婚して(1972年)、少しお休みした後、まったく新しい私でスタートしたいと思って、ミュージシャンも全部新しくして、遠藤賢司の担当ディレクターと一緒に73年に再スタートした。その時、ミーティングしている場所に間違って入ってきたのが、告井(延隆)さんだったの。

ーー間違って(笑)。

加藤:呼ばれてないのに、ふらっとスタジオに入ってきて、「ごめん、間違ったかな」って言って出ていった(笑)。その気配に、私は惚れたわけ。「あの人誰?」って聞いたら、ロックバンドをやってると。そこで大事なキーワードが、「あいつ、ギターとピアノと両方できるよ」っていうことで、ディレクターの(金子)章平ちゃんが「あいつを呼ぼう」と言って、そこが縁なんですね。それで再スタートを切ったアルバム『この世に生まれてきたから』(1974年)の後は全部告井さんに入ってもらって、未だに告井さんとやってます。その途中で告井さんは、乱魔堂からセンチメタル・シティ・ロマンスに行って、センチにバックバンドをやってもらうようになったの。

ーーすごく興味深いです。日本のフォークロック史的な、本でしか読んだことのないお話なので。

加藤:その後、「ヴァイオリンがほしい」と言って、ムーンライダーズの武川(雅寛)さんを紹介されたんだけど、私が歌うシャンソンの譜面には音符が書いてあって、「音符が書いてあるメロディーを弾いたことがない」って言うんです(笑)。つまりコードネームで弾いてる。告井さんも、ピアノはコードネームでしか弾けなくて、オタマジャクシを弾いたことがなかったって。それでもピアノは上手に弾けるし、くじら(武川の愛称)さんも、最初はどうなることかと思ったけど、そのうち完全に私の世界に合わせて作ってきてくれました。

ーーそれを聞いて思うのは、シャンソンで育って、歌謡曲でデビューした登紀子さんが、ロックやフォークの時代に果敢に飛び込んでいく、越境する力ってすごいなと思うんです。

加藤:越境は確かにキーワードですね。最初はシャンソンだったけど、悩みは、日本語の訳が好きじゃなかったこと。フランス語で歌ってたんだけど、それで歌手になれるわけないじゃんっていうことで、歌謡曲に行くわけ。だからデビューして、新人賞を受賞していなければ、私はシャンソン歌手になっていたかもしれない。

ーーもしかして、そういう未来もあった。

加藤:私は、エディット・ピアフになろうと思っていたわけだから。学生時代はアンダーグラウンドで、前衛演劇みたいなグループの中にいたのに、歌手になった途端にミニスカートで、銀座の街角で赤い風船を持ってジャケット写真を撮って、交通安全を呼びかけるみたいな人になるわけだから、それはそれなりに悩ましいんですよ。でもやると決めたら「やります」と言って、「赤い風船」で新人賞をもらうんです。そしたら(「赤い風船」を作曲した)小林亜星さんが、その次に「ギターをひこう」という曲を書いて、「弾きながら歌え」って言うわけ。私、ギターは全然弾けないのに。

ーーそれは無謀な(笑)。

加藤:あの人たちは、仕掛ける人たちなのね。で、イントロがAマイナーだけで、あたかもギターの弾き語りのような曲を作ってくれた。そういう時代なんです。歌謡曲もポップスも、どういうのがいいのか? っていうのをみんなが模索していた時代で、「こういうのが当たったから次もこれでいこう」ってなる。だけど、まだポップスにおける成功事例はそんなになかったんですね。日本の社会の完成度も緩かったから、過激なことができたんです。どうやったら面白いことが作れるんだ?って、みんなが面白がってやってた時代ですね。

ーーそこに登紀子さんも、面白がって入っていった。

加藤:いえ、私は子供だから、面白がるほどの余裕はないですよ。アップアップです(笑)。20歳か21歳の女の子が、あれよあれよという間に振り回されてるっていう感じ。だけど周りの大人たちは、とにかく面白がってましたね。そして私の本当の意味でのヒットソングは、「ひとり寝の子守歌」(1969年)だったと思います。その頃の私は、もう歌手をやめるぐらいのつもりだったんですよ。「赤い風船」も、なかにし礼さんと作った演歌の「恋の別れ道」も、演歌こそが民衆の歌なら私は演歌でもいいわよって思いながら、次から次と年に3枚はシングルを出すんだけど、何を歌えばいいのかわからなくなって、本当に途方に暮れて。それで、だんだんとアップテンポのものが歓迎される時代になってきた時に、「ひとり寝の子守唄」を作ったわけ。

ーー世の中に逆行したわけですか。合わせるのをやめたというか。

加藤:だから誰にも聴かせてなかった。その前にちょっと売れ線の曲をリリースしたばっかりで、キャンペーンしてたんだけど、売れないってわかってるの。でも作曲家の先生にいただいた曲だから、ありがたく歌わせてもらうという、そういう最中に「ひとり寝の子守唄」ができて、どこにも出さないでいたんだけど、ある新聞記者にそっと聴かせたら「絶対やるべきだ」と。曲ができたのは3月で、しばらく隠していて、6月にレコーディングして、9月にはリリースして、歌唱賞を受賞したんです。だからすごく早いんですけど、時間の感じ方がゆっくりだったから、じりじりするような気持ちでいましたね。

ーーそこが大きなターニングポイントになりました。

加藤:大学を卒業して、藤本(敏夫/1972年に結婚)とも出会った後だったから、私のいる歌謡界と、自分の感じている世界とのギャップがありすぎちゃって、もうもたないわっていう時だったんです。そんな時に出した「ひとり寝の子守唄」が、なんと、ヒットしたの! あれは本当に信じられなかった。方程式が全くなかったから。

ーー狙ったわけではなかった。

加藤:それで私はやめられなくなった(笑)。そうなると、シンガーソングライターっていう言葉はまだないけど、「自分で作れ」ということになりますよね。そこから3曲、私が作詞作曲したものが続いたんだけど、曲を作るのは本当に大変で、人が作ったものでもいいんじゃない? ということになって、「知床旅情」(1970年)を出すわけです。「知床旅情」も、誰も考えてなかったんですよ。ヒットするなんて。

ーー正真正銘、100万枚以上の大ヒットでした。

加藤:その頃になると、井上陽水さんとか小椋佳さんとか、出すもの出すもの売れるっていう方程式が見えてきたわけ。アンダーグラウンドだった人がどんどん上がってきて、ポップスの黄金時代が始まるんです。その時に、井上陽水のディレクターだった多賀英典さんにスタジオに呼ばれて、「売れないってことは曲が良くないからだよ」って説教されたの。「良いものを作れば絶対売れる」って言うから、「そうですか」って。実際に売ってる人の言葉ですからね。その場面は、1コマずつ全部覚えてるぐらい記憶してます。それで私は一度だけ、多賀さんにプロデュースを任せたんだけど、プロデュースするにあたって、彼が私に宣告したことがあったんです。「おとき、世の中の人はね、たくましい女が嫌いなんです。あんたは、たくましすぎるんだ」って。要は、儚くて美しいもの、破れ去るもの、弱いものが日本人は好きですと。「儚いやつを作れ」って言われて、七転八倒して、一生懸命作ったのよ。面白かったけど、でも成功しなかった(笑)。多賀さんにはずいぶんお世話になったけど、言われたことは全部外れました。

ーーそうですか(笑)。

加藤:あと、今回のアルバムで言うと、ちょっと珍しいのは、阿久悠さんの「浪漫浪乱」って曲。これ、どう思います?

ーーいい曲だと思います。

加藤:いいでしょ? でも売れなかったの(1984年のシングル『風来坊/浪漫浪乱』)。この間、中国に行った時、ちょっとした博物館みたいなところに、私のコーナーが作られていたの。館長さんが集めていた私のレコードとかを展示して、その一角に、なぜか阿久悠さんのエッセイが飾ってあった。私について書いたものじゃないんだけど、なんて書いてあったかというと、「僕は強い女の歌を書きたい。でもそれは売れない。フェミニストの人たちは“なんで弱々しい女ばっかり書くんですか”と僕を責めるけど、いくら書いたって売れないじゃないか」って。「あなたについていきます」とかなんとか、そんなものばっかり売れるじゃないかと。

ーーうーん。なるほど。

加藤:なぜ阿久悠さんが私に書いた曲が売れなかったかというと、全部が強い女なんです(笑)。そのことを踏まえて、彼がそのエッセイを書いたかどうか知らないけど、でも私を強い女で勝負しようとしたんだね、きっと。阿久さん、私に言いましたよ。曲もいいし、詞もいい。萩田光雄さんのアレンジもかっこいい。「でも売れなかったね」って、二人でうなだれた曲です(笑)。でも阿久さんの中に挑戦しようという気持ちがあったのが面白いから、今回のアルバムに入れて、コンサートでもやりたいと思ってるんです。そしてもう一つ、「止まらない汽車」(1980年)っていう曲も、何と言うか、デッドスペースに入っちゃったような曲なんです。どう?

ーーいや、いい曲ですよ。

加藤:誘導尋問してる(笑)。これはつい最近、この曲を熱烈に好きっていう人が現れて、「どうしてどこのアルバムにも入れてないんですか」って。CDにはなってないから「ずっと探し続けてるんですよ」って。それとこの曲は、松本零士さんのたってのお願いで、映画(松本零士原作・監督『元祖大四畳半大物語』)のエンディングテーマとして書いたんだけど、後で零士さんが言うの。「ごめんね、映画はコケました」って(笑)。その思い出がこの曲にはあって、今回ここに入れました。だから、大先生との大エピソードですよ、この2曲は。CDのテーマが「出会い物語」ですから、うまくいった話だけじゃないんです。うまくいってない話も面白いじゃないですか。そういうのもいいかなと思って、ピックアップしたんです。

ーーいわゆるベストアルバムとは違いますね。ヒット曲、有名曲だけじゃない。

加藤:ヒット曲もちゃんと入れるけど、それだけじゃ買う気にならないわよねって私は思うんですよ。「この歌知らないわ」っていうのがないと。だから選曲は面白かったですよ。

ーーコンセプトがしっかりあるんですよね。DISC1が「出会い物語」で、DISC2が「恋話」。

加藤:DISC1の1曲目に入ってる「Imagine」も、日本語の語りが入ってるのでなかなか許諾にならなかったんだけど、ウクライナの支援CDを作る時に、オノ・ヨーコさんに直接OKをもらって、それがきっかけでレコーディングができたので、今回「出会い物語」として入れさせてもらいました。

ーー今の時代に聴く「Imagine」は、本当に素晴らしいです。より重みを増しているように聴こえます。

加藤:「Imagine」は本当に響きますね。グローバルな時代になって、国境線が馬鹿らしい時代になりつつある最後の時代を生きてるから、この曲にはリアリティがあるんです。だから、60周年のアルバムのDISC1が「Imagine」からスタートして、DISC2の最後に、これも大成功とは言えなかったけど、松本零士さんのほとんど最後の作品になった、映画『キャプテン・ハーロック』の冒頭のシーンで使われた「愛はあなたの胸に L’amour dans ton coeur」を入れてる。これも大先生との大エピソードの一つですね。

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