村越弘明:スライダーズから追い求め続ける“言葉の深み”と“理想のロック” 「今井智子 ロックスターと過ごした記憶」Vol.4

幼い頃から育まれた音楽的素養 4人の出会いとスライダーズのデビュー
何しろスライダーズ時代のHARRYは喋らなかった。ライブでもオープニングで「ハロー!」と野太い声で言うだけで、あとは演奏に集中する。途中で「こんばんは、THE STREET SLIDERSです」と言ってくれれば儲けもの。演奏が終わればスカーフをくるくると振ってオーディエンスの声援に応えてステージを降りる。もちろんそれで十分満足できるライブをやってくれていたからだが、インタビューはもっとスリリングだった。普段から饒舌なイメージはなかったが、取材の場では寡黙というより、喋るのがかったるい、という感じ。曲を作って演奏するのが俺たちのやりたいことで、なんでこんな話につき合わなきゃならないんだ? とか思っていたのだろうか。こちらも申し訳ないような気持ちになりながら、何とか言葉を引き出そうと質問を続けていく。当時は記録メディアとして一般的だったカセットテープレコーダーが回り続けるのを見ながら、じっと答えを待つ。それが取材と心得るしかなく、達観めいた心の平静を目指して修行のような時間を過ごしていた。
この時期には、なぜか寡黙なアーティストを担当することが多かった。そのトップ3が、RCサクセションの忌野清志郎、スライダーズのHARRY、そしてザ・ルースターズの花田裕之。清志郎はその後饒舌になっていろいろ話してくれるようになったが、80年代半ばはとても口の重い人だった。花田は大江慎也脱退後に自らがフロントに立ったのだが、その過程のいろいろを思うと、これもまた口が重くなるのもわかるというもの。それにしても喋ってもらわなければ雑誌やラジオ番組は成立しない。答えを引き出そうと必死で語りかけるインタビュアーと、「ああ、そうだね」などと相槌を打つインタビュイーという構図になっていく。そんな時にボソリといいこと言ってくれたりすると泣きたいくらい感謝したくなったものだ。
著書でHARRYは、小学生でギターに目覚め、中学時代にThe Beatlesに衝撃を受け、バンドを始めてThe Rolling Stonesに出会ったと語っている。言わずもがなキース・リチャーズに魅了され、5弦ギターとオープンチューニングへのこだわりとなっていく。バンドを組んでも自分はサイドギターでたまにコーラスするぐらいがいいと、スライダーズを組んでも思っていたとは意外だが、ボーカリストを探していたが見つからず、そうこうするうちに『新星堂ロックイン・コンテスト』でグランプリを獲得、1983年にメジャーデビューすることに。デモテープを録音する時にHARRYが歌ったので、そのままボーカルをやることになった。しかし、すでに曲も書いていたしコーラスする気はあったから、歌うことを拒んでいたわけではなさそうだ。この本で私も初めて知ったのだが、彼の父はアコーディオン奏者、母は看護師学校でコーラス部にいて、歌うことが好きだったとか。母親が歌う曲を一緒に口ずさんだりしていたんじゃなかろうか。この話は『My Life, 10 Stories』(FM COCOLO)に出演した際もしていて、自分の人生のサウンドトラックとして父親が毎晩のように練習していた「トルコ行進曲」「ポーリュシカ・ポーレ」、母親が夕食を作りながら愛聴していた「悲しくてやりきれない」(ザ・フォーク・クルセダーズ)を挙げていた。物心つく前から父の弾くアコーディオンで正しい音階やコードを耳にしていたHARRYは自然と音楽の素養を身につけていたのだろう。そして歌う楽しさや心地よさを母から受け継いだのかもしれない。
スライダーズの萌芽は高校生の頃だ。同級生のJAMESこと市川洋二(Ba/Vo)と親しくなり、バンドもやるようになる。ドラムとギターが入れ替わりながら2人はTHE STREET SLIDERSの名でバンドを続け、やがて蘭丸とZUZU(鈴木将雄/Dr)のバンドと対バンを通して出会った。HARRYは蘭丸のギターにブルースを感じ、彼の働いていたロック喫茶に出向いてバンドに誘った。ライブを観た蘭丸はHARRYの歌に衝撃を受け、一緒にやることを決意する。当初は躊躇したZUZUも、HARRYと話すうちに彼を理解して加わることにした。ZUZU曰く、HARRYが日本語でロックをやることを目指して「自分たちらしいスタイルを作りたい」と言い、そのためのサウンドや日本語の使い方について説得力のある話をしていたそうで、「音楽の話をするHARRYは異常にすごかったね」と振り返っている(※1)。
メンバー4人が揃ったスライダーズは、吉祥寺のシルバーエレファントや福生のUZUといったライブハウスなどで演奏するようになるが、HARRY自身は「バイトをしながらスライダーズをやっていればいいやって感じだったけど、公平は本気だったね」(※2)と話しており、蘭丸が話を持ってきたコンテストに出場する時も、HARRYが来るかどうか直前まで3人も確信が持てなかったらしい。だがHARRYは来た。そしてグランプリを獲得、デビューすることになった。

やさぐれたロックンロールでブレイク 武道館へ駆け上がる
私がスライダーズを初めて観たのは新宿ACB。記憶は曖昧なのだが、スライダーズが主題歌と音楽を担当した映画『"BLOW THE NIGHT!" 夜をぶっとばせ』(1983年)のライブシーンの収録だったかもしれない。バンドはラメの入ったジャケットやペイズリー柄のパンツを着て、挑戦的な眼差しでステージに立っていた。第一印象は“The Rolling Stonesのルーズなところを凝縮したようなバンド”。そんなことをどこかに書いた覚えがある。若いのにやさぐれたミディアムテンポのロックンロールをやるバンドなんて珍しい。そのスタイルになった理由が、前述の番組『My Life,10 Stories』でわかった。The Rolling Stonesの「Little Queenie」を挙げて、HARRYはこんな話をしている。
「チャック・ベリーのカバーなんだけど、それをミディアムテンポにするところがすごい。聴くたびにじわじわやられる。バンドのグルーヴもすごいんだけど、キースのリードギター自体にグルーヴがある。ミディアムスローでやるのが、こんなにもかっこいい。聴くたびに深みにハマっちゃって、それで俺、ミディアムスローでやろうって決めたんだ」
こんな話を出会った当時に聴くことができたら、彼との距離を少しは縮められただろうか。でも絶対に話さなかっただろうなと思う。バンドをやるための大切な鍵を、そう簡単に回して扉を開けるとは思えない。バンドの仲間には少しぐらい見せただろうが、関係ない者には関係ないことだ。

当時のスライダーズは常に周囲に鋭い眼差しを投げかけ、あるいは全く無関心のように視線を漂わせ、何かあれば一瞬で牙を剥く、野生の生き物のようだった。そんなイメージを持っていたのは、HARRYがステージで酒をぶちまけていたとか、福生にある米軍キャンプのクラブで酔った米兵との喧嘩も厭わない、といった噂を聞いていたせいかもしれない。それなのに「のら犬にさえなれない」のように気怠い情景が浮かぶバラードを歌う。この曲はHARRYが19歳の頃に初めて作ったオリジナル曲で、〈道化師たちが 化粧を落として/パントマイムで どこかへ抜け出した〉と歌うラストは、フェデリコ・フェリーニの映画を連想したくなる。この曲を作った頃は、友達やジョン・レノンの影響でシュルレアリスムに興味を持ち、『シュルレアリスム宣言』(1924年)を書いたアンドレ・ブルトンの詩を読んだり、ダダイズムにも惹かれてエリック・サティを聴いたりしていた。同時にThe Rolling StonesやThe Beatlesを聴き込み、さらにIan Dury & The Blockheads、Graham Parker & The Rumour、Dr. Feelgoodなどのパブロックを愛聴した。これらがHARRYの中で混じり合い煮詰められ発酵し昇華されて、スライダーズの曲となっていったのだろう。
スライダーズは1983年3月5日、1stアルバム『SLIDER JOINT』でデビュー。同時発売のシングル曲「Blow The Night!」は前述の映画の主題歌だ。早速全国ライブハウスツアーに出て、同年末には2ndアルバム『がんじがらめ』をリリース。翌年には全国ツアーを行い「So Heavy」などライブで人気の曲も増えた。3rdアルバム『JAG OUT』(1984年)ではHARRYと蘭丸のソングライティングチーム JOY-POPS名義での曲が入ったことも、バンドに新風を吹き込んでいたし、ライブを重ねてバンドも一段と固まり「TOKYO JUNK」「カメレオン」といった代表曲も生まれて、まさにホップ・ステップ・ジャンプといった印象の3作だ。初のロンドン録音作『夢遊病』(1985年)、「Angel Duster」をはじめ名曲揃いの『天使たち』(1986年)で人気を不動のものとして、1987年1月に初の日本武道館公演を行った。敬愛するThe Beatlesも立った武道館のステージは、HARRYにとって感慨深かったのではなかろうか。日本各地にドーム会場が作られる前の日本武道館はロックコンサートの最終着地点のようなものだったから、達成感もあっただろう。
2000年に解散 スライダーズの切実さを物語っていた“HARRYの歌声”
6thアルバム『BAD INFLUENCE』は再びロンドンに飛び、アビー・ロード・スタジオで、The Clashを手がけたジェレミー・グリーンをプロデューサーに迎えて制作、彼のアイデアを加えたアレンジで新機軸を打ち出した。ホーンセクションを加えたスライダーズ流レゲエ「Baby, 途方に暮れてるのさ」、ファンキーな「Don't Stop The Beat」など、カラフルな曲が並んだ。出色はHARRYが大らかに歌う「風が強い日」で、HARRYが道に佇んでいるだけのバリ島で撮影したMVも素晴らしい。HARRYのお気に入りブロックヘッズのメンバーだったキーボードのミッキー・ギャラガーがレコーディングに参加している。この後にZUZUが交通事故で入院し、バンドは半年ほど休止。その間にHARRYと蘭丸はアコースティックユニット JOY-POPSとしてライブを行った。2人の新たな一面を垣間見るようでもあったし、2人の曲作りの現場を見るようでもあった。
1988年にバンドは活動再開し、翌年7thアルバム『SCREW DRIVER』をリリースするが、次第にライブも制作もテンポを落としていく。8thアルバム『NASTY CHILDREN』(1990年)は全曲がJOY-POPS名義。HARRYは「レコーディングとツアーの繰り返しが嫌になって」曲作りに行き詰まるようになったと吐露している(※3)。バンドは再び休眠し、1993年の武道館公演を経て、1995年に3年かけて曲を揃えた9thアルバム『WRECKAGE』を発表した。〈何か始めよう 新しいこと〉と歌う「WAVE’95」に期待をかけたが、次の10thアルバム『NO BIG DEAL』(1996年)が最後のスタジオ作品となり、2000年にスライダーズは解散した。
HARRYの声は実にユニークだ。ガサガサに乾いた感触とドロリと滑った手触りと尖った痛みがぶつかり合いながら響いてくるような感じ。いわゆる美声ではないが一度聴いたら忘れられず、聴くほどに味わいを感じる。ボーカリストになりたかったわけではないと言うけれど、この声で歌うから彼の曲は唯一無二のものになる。インタビューの機会は少なかったが、スライダーズの作品やライブについて書くことは多かった。それはHARRYの歌と楽曲の雄弁さに加えバンドの音とグルーヴに魅力があったからだ。ロックバンドの理想型を追いながら、かたちの表層をなぞるのではなく、掘り下げてかたちを作る以前のところまで辿り着こうとする。そうしなければ生きていけない、と言わんばかりの切実さをHARRYは発散していた。それを伝えきれない焦燥や、受け止めない相手への苛立ちが武勇伝を生んでいたのではないか。そしてそんな彼と同じ思いを持って集まったのがスライダーズだったのだと思う。スライダーズが幕を閉じ、4人はそれぞれのロックを模索し進み始めた。HARRYも然り。曲を作り歌わずにいられなかったのだろう。2001年11月にはソロでライブ活動を開始した。
多作なソロで日本語ならではの表現をさらに追求
半年後、BLANKEY JET CITY解散後に中村達也が組んだLOSALIOSと、照井利幸がTHEE MICHELLE GUN ELEPHANT休止中のチバユウスケと始めたROSSOが中心になったイベント『WEEKEND LOVERS』にHARRYは登場した。アコギでの弾き語りで新曲も披露、さらに野口健一のベースとZUZUのドラムという意外な編成でのライブだった。ソロで歌うHARRYに新たな魅力を感じて、私は自分が企画したイベントに出てもらったこともある。
これはどこに掲載されたものかわからないが、その当時のインタビューだ。ソロになったHARRYは、どこか肩の力が抜けた印象があり以前に比べたら饒舌だった。
「とりあえず簡単にできるって言うかね。メンツもいなかったんで。“アコギでやれば”と話してくれるヤツもいて、じゃあやってみるかと。(やっていると)だんだん深みにハマっていった。見えてきたって感じかなあ。アコースティックギターと歌だけの世界って、やるごとに面白くなっていった。アコギで始めるって決めた時、しんみりした感じにならないといいなってのは、考えてたかもな」
ソロでやる快感も覚えたと言いながらも、ZUZUと演奏したということはバンドをやりたいのでは? と振ると「それはもう、変わらない、ずっと。今でもバンドは作りたい。それが一番やりたいことかな」とも答えた。
2003年には1stソロアルバム『Bottle Up and Go』をDr.kyOnとの共同プロデュースでリリース。次第にJAMESとZUZUがレコーディングに参加するようになって、現在までにライブ盤やベスト盤などを含め通算27作を出している。“バンドをやりたい”という思いを貫いていることを示すように、最新作は25年目になったソロ活動を総括する3枚組ベスト盤『Harry The Best 谷間の火狗』(2025年)だ。この作品名だけで25年の間にHARRYの中にいろいろなことが起こってきたことを感じる。スライダーズを始めた頃から日本語でロックを歌うことにこだわりを持っていたHARRYだが、ここにきてさらに日本語ならではの表現を追求してきている。
「これまでは、曲が先にできたり詞が先にできたりフレキシブルに曲作りをしていたけど、前作『HOW DO WE LIVE』あたりから、ほとんどの曲で詞が先にできて後から合わせて曲をつけるというスタイルになった。『歌っていうのは言葉が先にありきだろう』と思うようになった」(※4)
言葉へのこだわりからだろう。この『HOW DO WE LIVE』の次作にあたるオリジナルアルバムに『狼煙』では、HARRYの歌とギターの他はドラムだけの録音だ。スライダーズ時代には封印していた言葉も使うようになったとも言っており、強引に解釈すればHARRY自身がスライダーズという存在から解放されていったのかもしれない。「無頼白痴」といったHARRYの新境地にして変わらぬセンスを感じさせる曲が並ぶ『狼煙』のリリースは2009年11月。スライダーズ解散から9年が経っていた。
念願のスライダーズ再結成 再び動き出した物語
HARRYがJAMESとZUZUとステージに立ったと聞いたのはスライダーズでデビューしてから30周年となった2013年。以後しばしば3人は揃ってステージに立った。阿吽の呼吸のリズム隊との演奏は往年を思い出したものだが、いつだったかHARRYが観客の声援に応えてフランクに喋るのを見て、ずいぶん開けたなあと驚いたものだ。スライダーズのデビュー35周年となった2018年にはJOY-POPSが復活。HARRYと蘭丸、2人の息の合ったライブを見せた。同年にビルボードライブ東京で観た時、HARRYはMCで「最初はJOY-POPSをやるなら近所の立川あたりでやろうぜって言ってたのに、蓋を開けたら全国ツアーになって、Tシャツも作ったりCDも作ったり、DVDも出して。終演後にサインします」と観客を喜ばせていた。こうして何となく近づいていったことで「4人が揃う日が来るのでは」という期待も高まっていった。2020年のコロナ禍で世間の動きが止まり、2021年にはHARRYが肺癌のため治療に入るとアナウンスがあり心配したのだが、幸いにも回復し、ライブも再開。そしてデビュー40周年を迎えた2023年、ついにスライダーズが復活した。
前段としてトリビュート&オリジナル盤『On The Street Again -Tribute & Origin-』がリリースされ、5月に武道館公演が行われた。23年前と同じく1階席を360度解放したライブは圧巻だった。HARRYは「全ての関係者に感謝したい。今日は来てくれてありがとう」と謝辞を述べた。終演後に話す機会があり、いいライブだったと感想を伝えると「イマイチだったけど」と嬉しそうに言った。こんなもんじゃねえぞということだったのだろう。その後は全国ツアーを行い、翌2024年に日比谷野外大音楽堂でのライブを行って40周年の幕を降ろした。HARRYは前述の3枚組ベスト盤を携えて再びソロでツアー(『村越弘明 Tour 2025 庭師のシャッフル』)に出ている。彼が最近になって語ったことを踏まえてスライダーズ時代から彼の曲を聴くと、以前と違った解釈が生まれてくる。ロックをやることが唯一の救いだった青春時代から根底にあるものは変わらないのだろうが、これからもっと彼の曲は面白くなり、歌に磨きがかかってくるのではないだろうか。もう少し彼の歌を聴いていたいと思う。
※1:『ストリート・スライダーズ 聖者のラプソディー』(ロッキング・オン)
※2・3・4:『詩・写真集 真夜中の太陽』(KADOKAWA)

























