故・西尾芳彦氏は「人生に音楽の道を与えてくれた」 家入レオ、苦楽を共に過ごした恩師との思い出

音楽プロデューサーで作曲家の西尾芳彦氏が5月30日に逝去したことが、西尾氏が代表を務める音楽塾ヴォイスの公式サイトで発表された。1997年に福岡で音楽塾ヴォイスを設立し、「ヴォイス理論」と呼ばれる独自のレッスン法で、YUIや絢香、家入レオ、玉城千春(Kiroro)、chay、カノエラナ、eddaらを輩出。絢香の「I believe」や「三日月」、家入レオの「サブリナ」「Shine」「君がくれた夏」など、制作に携わったヒット曲も多数。近年では東京校にChilli Beans.とVaundyが所属するなど、西尾氏は長きに渡り、日本の音楽業界に大きな影響を与えてきた。
今回は故・西尾氏について、家入レオに話を聞いた。彼女が音楽塾ヴォイスの門を叩いたのは、まだ13歳の頃だった(以下、発言はすべて家入によるもの)。
デビュー前の家入に伝えた“自己満足で終わらせない表現”
「当時、YUIさんの曲をよく聴いていた私に、友達や周囲の人が教えてくれたのが『音楽塾ヴォイス』でした。デモテープを送ったら西尾先生が『この子はいいものを持ってる』と思ってくださったようで、会っていただけることになって。すでにYUIさんや絢香さんに音楽を教えてこられた方にお会いできて嬉しいはずなのに、不器用な私は『音楽をやりたい』という気持ちを言葉ではなく目で伝えることしかできませんでした。それを後になって西尾先生は『初めて会ったとき、ずっと僕を睨みつけてた』って(笑)。そんな出会いでした。でもその瞬間に、『私の人生が何か変わっていくのかも』という直感があったんですよ。あの頃にもう1回戻りたいなって思っちゃうくらい。懐かしいですね」

入塾はオーディション制だが、重視するのは「音楽に対する一途さと苦しむ覚悟」だと音楽塾ヴォイスのサイトに記されている。シンガーソングライターを志す当時の家入に、楽器の弾き方から作詞・作曲の方法まで教えてくれたという。
「自分がいいと思う曲を選んで、どうしてこの曲が耳や心に残るんだろうということを、コード/メロディ/リズム/歌詞の観点から全部解体して分析していくんです。そうした、いわゆる『ヴォイス理論』を学ぶことで『曲って奇跡だけで作れるわけじゃないんだ』ということがわかりました。音楽に限らずなのかもしれませんが、映画でも本でもお芝居でも、衝動的な自己表現だけだと長く人に届かない。自分の表現欲を満たしながら、多くの人の耳や心に届けるにはどうするのかという、その技術を教えてもらったんです。『自己満足で終わらせない』というのは西尾先生に何度も言われた言葉です」
西尾氏は1986年に西尾芳彦&ライトスタッフとしてメジャーデビューしている。そんな経験も踏まえ、後進を育ててきた。
「ご自身もアーティストを志して一度デビューされて、地元(佐賀)に帰ってきてからは全く違う職業に就いていたそうです。だけど『やっぱり音楽をやりたい』と思って音楽塾ヴォイスを作られたと。そんな西尾先生がおっしゃっていた『音楽での傷は音楽でしか癒せないんだよ』という言葉がすごく印象に残っています。それは私自身が音楽と向き合いながら、悔しいことがあるたびに思い出す言葉です。『自分なんて』と思うときも、その気持ちは音楽をもって越えていくしかない。西尾先生は私たちに自分と同じ想いをさせたくないという気持ちがベースにあったんじゃないかな。だからこそ、とことん生徒と向き合ってくれた。そんな愛情深い方でした」

西尾氏が病室からも指導し続けた1stアルバム制作
作曲家としても多くの楽曲を生み出してきた。家入が鮮烈なデビューを飾った2012年の代表曲「サブリナ」も西尾氏との二人三脚で生み出されたものだった。
「デビュー前に『サブリナ』や『Say Goodbye』の原形ができて、当時はまだマンションの1室だった音楽塾ヴォイスの福岡校で、西尾先生に聴いてもらいました。『サブリナ』のサビを私が作っていたんですけど、西尾先生から『これ、サビもめちゃくちゃいいけど、イントロに違うメロディを持ってくるのもありじゃない?』と提案されたことで『パッパッパッパラッ』の部分ができました。2人で『これじゃん!』って。そのときに、曲をさらによくしていくってこういうことなんだなって体感しました」
1曲1曲、互いに妥協せずに音楽制作をしてきた。彼女がまだ高校生だった1stアルバム『LEO』(2012年)の制作では、こんなストイックなエピソードも。
「レコーディングが終わって帰宅すると西尾先生から電話がかかってきて。『この歌い方じゃダメだよ、もう1回レコーディングスタジオに戻って』と言われて。そのとき、西尾先生はご病気で病室からの電話だったんですけど、私がスタジオに戻ったら、電話をしながら遠隔でボーカルディレクションをしてくださって。西尾先生もお体がキツかったと思いますが、それでも妥協せずアドバイスをくださいました。当時まだ10代だった私を子供扱いせず、音楽を志す者として同じ目線で、いい作品を作るためにとことん向き合ってくれた人がいた。それはとても恵まれたことだったんだなと思います」


















