秋元康が手掛ける昭和歌謡リバイバルで目指す日本のトップ SHOW-WAが見つめる夢と現実
シティポップ、そして昭和の時代をはじめとした歌謡曲がリバイバルされて久しい。そして、その勢いは衰えず、むしろ再評価の規模はさらに増している。無駄のない、しかし覚えやすいキャッチーな歌詞とメロディ……コロナ禍のパンデミックで世界に再発見された日本の歌謡曲は、ほかにはない独自のスタイルで長く継承されてきた。
日本国内のみならず、海外のリスナーにも熱心な支持を持つ古きよきJ-POP=昭和歌謡。海外アーティストとしてデビュー後最短で東京ドーム公演を行ったK-POPガールグループ・NewJeansのメンバーは、その大舞台で竹内まりやの楽曲「プラスティック・ラブ」、松田聖子の「青い珊瑚礁」をカバーした。さらに遡れば、2020年には1979年にリリースされた松原みきの「真夜中のドア〜Stay With Me」がSpotifyのグローバルバイラルチャートで2週間以上もの期間首位に君臨した。
その流れは、今の音楽シーンでも新たな形となって表れている。キングレコードは、今年5月に6人組アイドル歌謡グループ・華MEN組をデビューさせた。日本の音楽シーンという大きな括りで見れば、演歌のジャンルでは若き歌手たち=“演歌第七世代”が大きな勢力を確立させている。そして、この9月には応募資格25歳以上という条件のもと3000人以上の応募者のなかからオーディションで選ばれた昭和歌謡男性グループ・SHOW-WAが秋元康プロデュースのもとavexよりデビューする。
昭和歌謡を令和の時代にリバイバルさせて日本を元気にするというグループの目標の域を超え、本当の意味で“昭和歌謡リバイバル”という現象そのものの先頭をSHOW-WAが引っ張り、そして世界へと届ける発信塔に――そんな存在になっていくことをインタビューを通して予感させてくれた。(編集部)
メンバー6人に共通する“夢を諦めきれなかった気持ち”が原動力に
――リアルサウンドにご登場いただくのが初めてなので、まずは左隣のメンバーの他己紹介からお願いします。
寺田真二郎(以下、寺田):じゃあ僕から! 山本佳志は、SHOW-WA唯一の関西人です。
山本佳志(以下、山本)。:奈良県出身です!
寺田:関西人ですけど、決して面白いわけではありません(笑)。でも、こういったインタビューの時に率先して話してくれて、普段もMCを担当してくれています。頼りになるメンバーです。
山本:向山毅は、パフォーマンス面で引っ張ってくれるメンバーです。しっかりしているのですが、プライベートでは抜けているところも多くて、そのギャップがかわいらしいです。
向山毅(以下、向山):僕の左にいる塩田将己という男はちょっとおバカちゃんですが(笑)、グループでいちばんのムードメーカーで、ライブでも楽屋でも盛り上げてくれています。すごくピュアなのですが、それが空回って面白い方向に転がったり、危ない方向に転がったり、目が離せなくなる最年少メンバーです。
塩田将己(以下、塩田):僕は青山隼を紹介させていただきます。彼は元Jリーガーで、ダンスや歌など初めてチャレンジする重圧もあるなか、グループのことはもちろん、音楽業界にどれだけインパクトを残せるかを常に考えてくれています。あとは、礼儀などの目に見えない部分もしっかりしていて、SHOW-WAがよりよい方向に向かえるように支えてくれる熱い男です。
青山隼(以下、青山):ちゃんとしたこと言ってくれた(笑)!
塩田:あと、すぐふざけます。天然おふざけキャラです。
青山:紹介、ありがとう! そして僕の隣にいるのは、井筒雄太です! 以上です。
井筒:もうちょっとあるでしょ(笑)!
青山:彼は笑顔、元気……。
山本:勇気!
青山:そう、勇気。前世はアンパンマンだったのかもしれません。彼はテレビの技術者をしていたこともあって、気遣いの男です。僕ら、結構ポンコツで抜けている部分が多くて。「次のライブのセットリスト決めましたっけ?」と気づかせてくれたり――。
井筒:だって、それは抜けちゃいけないところだから(笑)。
青山:そうだよね(笑)。あとは、山本と一緒にMCをやってくれることが多いんですけど、声も大きくて通るので、ライブや番組でのアクセルを踏んでくれるというか。元気印です。
井筒:寺田真二郎さんは、最年長のリーダーです。SHOW-WAはアグレッシブなメンバーが多いのですが、そんなメンバーたちを後ろからそっと見守って、足りないところにひと言添えてくれたり、かゆいところに手が届くような配慮をしてくれたり、グループを支えてくれるメンバーです。料理研究家ということで、料理もとても上手。僕たちもごちそういただく機会があるのですが、胃袋もしっかり掴まれています。そんな優しいリーダーでございます。
――ありがとうございます。では、皆さんがそもそもオーディションに応募したきっかけから教えてください。
井筒:僕は小さい頃にテレビ番組を見て、漠然とテレビの世界に憧れを抱いていて。ただ、引っ込み思案な性格だったので、「芸能人になりたい」とか言えなかったんですね。でも、何かに携わりたいと思って技術スタッフとしてテレビ業界に入りました。ですが、演者さんを見ているうちに憧れている気持ちがまだあることに気づいて、思い切って退職して。その後はバーなどで働いていたのですが、そこのお客さまがこのオーディションを知っていて「井筒、興味あるんでしょ? 受けてみたら?」というひと言をかけてくださったんです。たしかに人生一回きりだなと、挑戦することにしたのが始まりでした。
青山:僕はこのオーディションを知ったのが、1次オーディションの10日前くらいなんです。事務所のマネージャーさんに「こういうオーディションがある」と教えてもらったのですが、歌ったことも踊ったこともなくて。でも「受けるだけ受けてみる? 」「夢を諦め切れない人が受けるオーディションだから」と言われて、「たしかに(自分は夢を)諦めきれていないな」と応募したのがきっかけでした。
――「夢を諦めきれない人」という募集要項が刺さったんですね。
青山:そうですね。それに、そもそもサッカーを辞めたのも「新しい世界に飛び込みたい」と思っていたからで。「まるっきり違う畑に行きたい!」と思ってサッカーを辞めたので、オーディションを知ったのが開催ギリギリでしたが、チャレンジしました。オーディションではホスピタリティやコミュニケーション能力、協調性なども見ていただけたことが僕にとっての救いでした。もしかするとサッカーの経験も活きたのかな、と。
塩田:僕は歌手をやりつつ、企業で営業として働いていました。大学の時に、オーディションでグランプリをいただいたことがあったんです。それでレコード会社と契約をすることになったのですが、ちょうど就活も並行していて内定が出ている状況で。いい大学に入らせてもらっていたので親を裏切りたくなかったですし、社会人を一度やっておきたいと、就職を選びました。その後は大阪に赴任しましたが、歌手の道を捨てきれずに活動を続けていて。でも、オーディションは東京で行われることがほとんどなんですよね。それに、二足のわらじを履いていると、1本でやっている方には勝てない。そこで東京に戻って転職したのですが、年齢を重ねるにつれて受けられるオーディションも少なくなっていくわけです。それならインディーズで地道にやっていこうと思っていた矢先に、このオーディションに誘っていただいて。一つ返事で受けることにしました。
寺田:二つ返事、ね。
青山:いい大学出たんでしょ!?
塩田:二つ返事で、です! 今、学びを得ました(笑)。
――(笑)。向山さんはいかがですか?
向山:僕はSOLIDIMOが解散する時期に、事務所の方から昭和歌謡を歌うグループのプロジェクトが始まるかもしれないと伺って。ただ、解散するまではSOLIDIMOをまっとうさせてくださいとお伝えしていました。解散後、詳しくお話を聞いてはいたのですが、大きなプロジェクトだったこともあってなかなか進捗がありませんでした。「本当にオーディションが行われるのかな」「もしプロジェクトがなくなったらどうしよう、歌い続けられるのかな」と不安に悩む時期を過ごしていましたが、ちゃんとオーディションが開催されてメンバーになることができました。たぶん、メンバーのなかでこのオーディションのことを知ったのは、いちばん早かったんじゃないかな。
――外から見ていると、SOLIDIMOからSHOW-WAと短期間で再出発を切られたと思っていたのですが、裏ではそういった葛藤があったのですね。
向山:そうですね。僕はずっとエイベックスに所属していたので、プロジェクトの中心スタッフのなかにはずっと僕の面倒を見てくださっていた方もいらっしゃったんです。気にかけてくれていたので「昭和歌謡というジャンルになるけどチャンレンジしてみる?」と声をかけてくださったのがきっかけでした。
山本:僕は高校卒業後に留学をして、留学先で俳優とモデルを始めました。そこから帰国して、運転手兼付き人をしながらたくさんオーディションを受けて、落ちて(笑)。年齢を重ねて段々受けられるオーディションも減ってきた時に、氷川きよしさんのコンサートに出させていただいたんです。その時に音楽で初めて舞台に立ったのですが、その経験がすごく大きくて。舞台なら2時間かかるところをたった1曲で人に感動を届けられるんだというのが、初めての感覚だったんです。そこから俳優だけではなく何にでも挑戦したいと思うようになって、ボイトレにも通って。そんな時にこのオーディションのお話をいただいたので「チャンスだ!」と。
――ちなみに、留学はどちらに?
山本:ロサンゼルスです。映画の制作をする学部に入学しました。学部の名前に「Film」とあったので、映画俳優のコースだと思っていたんですよ。演じるほうだと思って入学したら、まさかの作る側だったという(笑)。
青山:アホや(笑)。
山本:「あ、作るほうなんだ……」って(笑)。途中で変えようと思えば変えられたのですが、やっているうちに制作も楽しくなっていって、そのまま卒業しました。でも、今思えば、作り方を知っているのも強みなのかなって。運命に翻弄されながらも、36歳でやっとここまでこれました!
――絶対にその経験は活かせますよね。寺田さんはいかがですか?
寺田:10代の時、音楽活動がしたいと思っていたのですが、その時は諦めて料理の道に進んで20代、30代と仕事をしてきました。でも10代の頃の夢を捨てきれなくて、オーディションに参加することを決めました。
――料理家としても成功されていたのに、すごい勇気です。
寺田:40代はまた新しいチャレンジをしたかったんですよね。なので、そこまで勇気は必要ありませんでした。それよりも、このオーディションに出会えてよかったなって。