小坂忠、ロック黎明期に育まれた細野晴臣との友情 生涯のパートナー 高叡華が“究極のベスト盤”のバックストーリーを語る

高叡華が語る、小坂忠と細野晴臣の友情

 2022年4月29日に逝去したシンガー&ソングライター、小坂忠の“究極のベスト盤”『THE ULTIMATE BEST』がリリースされた。選曲を手がけたのは、小坂とともに日本のロックバンドの先駆けであるエイプリル・フールに参加、その後は時にプロデューサーとして、時にバックで支えるプレイヤーとして、数々の名盤を生み出してきた細野晴臣。二人のコラボレーションは、ロックバンドがメインストリームに位置づけられるきっかけを作り、若者達がごく普通にR&BやHIPHOPに親しむシーンの呼び水になった。小坂の生涯のパートナーであるトラミュージック/ミクタムレコードの代表・プロデューサー、高叡華がベスト盤のビハインドストーリーを語る。(君塚太)

日本のロック史を変える中心にいた小坂忠と細野晴臣

小坂忠 -「ほうろう」 (Official Music Video)

ーー今回、『THE ULTIMATE BEST』がリリースされることになった経緯を教えてください。 

高叡華(以下、高):実はもともと、小坂は細野くんと新作のアルバムをレコーディングするつもりだったんです。二人は20代だったエイプリル・フールから始まり、いくつものアルバムを一緒につくってきましたが、お互いに70代になって、何か一緒にできたらいいねと小坂と話をしていました。小坂も新曲を書く気になっていましたが、残念ながら彼の病状が進み、亡くなってしまったのです。その後、私が細野くんのところを訪ねて「小坂のこれまでの作品をベスト盤にまとめることはできるかしら」と相談をしました。

ーー細野晴臣プロデュースの小坂忠の新作……ぜひ聴きたかったですね。本当に残念ではありますが、お二人の関係の深さが感じられます。もともとの細野さんとの出会いは高さんのほうが先だったようですね。

高:そうです。大学時代の話ですが、慶應風林火山という企画団体があって私もメンバーでした。同じように立教大学にもコンサートを企画するサークルがありまして、仲が良かったんです。そこに後に小坂とバンドをやる柳田ヒロのお兄さん、柳田優がいて、後に写真家になる野上眞宏がいて……彼らは細野くんの同級生でしたから、学生時代に知り合うことになるんです。 

ーー慶應風林火山の後輩に松本隆さんがいて、松本さんがやっていたバーンズというバンドに、細野さんが加入したわけですよね。そして高さんはバーンズをバックアップして、コンサートを企画し、はっぴいえんど以前に日本語の歌詞でロックをやることを試みたと……。

高:風林火山の看板バンドは高橋幸宏のお兄さん、高橋信之がいたザ・フィンガーズだったのですが、プロデビューしたので、アマチュアのサークルとしては次にバーンズを応援しようと。要するに松本くんとは先輩後輩の関係でしたので、今となっては本当におこがましいのですが、私がコンサートをプロデュースするような形になったのです。日本語のロックを演奏することになったのは、みんなと話し合う中で決まったと思います。 

ーーそして、1966年にすでに柳田ヒロさんとザ・フローラルというバンドでデビューしていた小坂忠さんと、細野さんと松本さんとが合流してエイプリル・フールが誕生。ここで初めて小坂忠さんと細野晴臣さんはバンドメイトになるわけです。これらはすべて1960年代末の話ですが、日本のロック史に残る出来事が次々と起きていて、頭がクラクラします(笑)。 

高:エイプリル・フールのバンド名を決めるミーティングには私も参加していたと思います。小坂も細野くんもアマチュアがプロデビューした第一世代ですから、なんだかすべてが歴史の1ページみたいになってしまいますが、当事者達にはそんな意識はなかったと思いますよ。

ーーエイプリル・フールはアルバム一枚を残して解散し、小坂忠さんはロックミュージカル『ヘアー』のオーディションに合格して出演、細野さんと松本さんは、はっぴいえんどを結成し、一旦は道が分かれることになります。

高:でも、この頃は小坂にとって貴重な時間だったと思います。エイプリル・フールは新宿にあったパニックという場所に出演していましたが、ライブが終わってから松本くんの自宅に3人で集まって、色々なレコードを聴きながら次のステップを話し合っていたようです。その後もお互いの結婚式に出席したりしていましたので、この時期があったから浅くはない関係が長く続いたのだと思います。

ロック、R&B、ゴスペル……新しい音楽を探して

ーーそして、いよいよ小坂忠さんは1971年にソロデビューしますが、ミッキー・カーチスさんプロデュースのデビューアルバム『ありがとう』では、細野さんは曲を提供、レコーディングにも参加してサウンド面をサポートしました。さらに4枚目のアルバム『HORO』は細野さんプロデュースでR&Bの名盤との呼び声が高い作品に仕上がりました。

高:小坂は村井邦彦さんの音楽出版社、アルファミュージックが新たに設立したマッシュルーム・レーベルの第一弾アーティストとしてソロデビューしましたが、私もミッキーさんのアシスタントとして参加していたので、『ありがとう』の時は現場を担当していました。小坂はソロになってから自分のボーカルスタイルを迷っていましたので、細野くんの協力が必要だったのだと思います。『HORO』の時、私は出産のため現場にいなかったのですが、細野くんとの作品づくりがさらに充実して実を結んだのが『HORO』じゃないでしょうか。『HORO』のリリース後に行った『ファースト&ラスト・コンサート』ツアーが、スケジュール的にも精神的にも小坂にとって辛かったようで、そのプレッシャーから解放されて作った次の『モーニング』もいいアルバムになったと思います。私は好きですね、『モーニング』。私達がトラミュージックという事務所を立ち上げて、設立したスタジオ(トラスタジオ)に細野くんをはじめとするミュージシャン達を招いて制作したことで、小坂も肩の力が抜けて、いいボーカルになったと思います。私達の音楽がゴスペルに移行する第一歩にもなりました。 

ーーゴスペルへの第一歩となった『モーニング』のリリース後、1978年にゴスペルの専門レーベルであるミクタムレコードを設立し、小坂忠さんと高さんの活動は教会へと移ります。

高:教会を中心とした音楽活動がスムーズにできたかというと、そうではなかったですね。日本の教会音楽は伝統中心で、当時は讃美歌がほとんどだったんです。翻訳された歌詞も、日常的に使わない古い日本語で。本当に「歴史の中の音楽」という感じで、ゴスペルという言葉も浸透していませんでしたし、ギターを手にして歌うだけで批判されたものです。一方、アメリカでは『ウッドストック・フェスティバル』以降、目標を失ってしまったヒッピー達が教会に集まって、新しい音楽を作り始めていました。現代的な音楽にどんどん変わっていったんです。私達もそんな若い人達が普通に歌える教会音楽をつくろうと思って活動していたら、あっという間に25年も経ってしまいました。

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