橘慶太の「composer’s session」特別編

w-inds. 橘慶太と振り返るクリエイターとしての歩み 音楽を続けるために進んだ道、今後のビジョンも語る

 w-inds.のメンバーであり、作詞・作曲・プロデュースからレコーディングにも関わるクリエイターとして活躍中の橘慶太。KEITA名義でも積極的な音楽活動を行っている彼がコンポーザー/プロデューサー/トラックメイカーらと「楽曲制作」について語り合う対談連載「composer’s session」。その特別編として、橘自身のクリエイターとしてのキャリアをテーマにしたインタビューが実現した。

 2013年頃から楽曲制作を学び、KEITA名義の2ndアルバム『FRAGMENTS』(2015年)の収録曲「If You Were My Girl」で初めて作詞・作曲・編曲の全てを担当。w-inds.でも「We Don't Need To Talk Anymore」(2017年)を皮切りに楽曲を手がけはじめ、13thアルバム『100』(2018年)では全曲の制作、プロデュースを担った。現在では花村想太(Da-iCE)「Let me love you」など他アーティストへの楽曲提供・プロデュースにも取り組んでいる橘。「“このままでは音楽を続けられない”という危機感からはじまった」というクリエイターとしての軌跡に迫った。(森朋之)

将来への不安が後押しした楽曲制作の道

——橘さんが初めて作詞・作曲・編曲を手がけたのは、KEITA名義の2ndアルバム『FRAGMENTS』(2015年)収録曲「If You Were My Girl」。その前から作詞や作曲には関わってましたよね。

橘:はい。本格的に自分で作り始めたのが7年くらい前で、それまでは楽曲を提供していたただくか、(クリエイターの)横で「こうしたいです」と言いながら一緒に作らせてもらっていて。その頃は僕に知識がなかったから、自分がやりたいことを上手く伝えられなかったんですよ。「そうじゃないんだけどな」と思っていても、3回以上は言いづらいじゃないですか。どんどん思い通りに伝えられない自分が嫌になってきて。それが楽曲制作の勉強をしはじめた最初のきっかけでした。

——自分がイメージしているサウンドを具現化したい、と。

橘:そうですね。あと「このままだと音楽を続けられないかもしれない」という気持ちもあって。その時点でデビューして10年くらい経っていて、「もう辞めるわけにはいかない」「音楽は天職かもしれない」という思いもあったんですが、「でも、待てよ」と。それまではレーベルのスタッフに動いてもらったり、いろいろなクリエイターの方に曲を作ってもらっていたんですが、「レコード会社や事務所の人がいなくなったら、俺、音楽できないじゃん」って不安になってきたんですよ。そこで「ぜんぶ自分でやれるようにならないとダメだ」っていきなりスイッチが入って。もともとビビりというか、最悪の状況を想像するタイプだったし、「作詞、作曲だけじゃなくて、アレンジやミックスまでやろう」と。

——危機感があった?

橘:かなりありましたね、それは。そんなに甘い世界じゃないというのもわかっていたし、2013年の時点では「あと10年続く」とはとても思えなかった。その前からDAWソフトをちょっと触ったりはしていたんですけど、そこから本気で勉強をはじめました。

——具体的にはどんなことをやったんですか?

橘:クリエイターの動画を見まくったり、あとは身近にいた人にアドバイスをもらったり。自分の場合はありがたいことに、まわりにトラックメイカーやエンジニアがいましたからね。今井了介さんに「Make you mine」を作ってもらったときに「セッションデータ(楽曲のデータファイル)を送ってもらえませんか?」とお願いしたことがあって。普通はダメだと思うんですけど、「いいですよ」って言ってくれたんです。「Make you mine」「Million Dollar Girl」のデータを送ってもらったんですが、それを見れば、音の配置だったり、どんなエフェクトを使っているのかもぜんぶわかるんです。

——めちゃくちゃ勉強になりますね、それは。

橘:そうなんですよ。あとはレコーディングの2時間くらい前にスタジオに入って、エンジニアさんに「こういうときはどうしたらいいですか?」って質問したり。録り終わってからもずっと残って、あれこれ聞いちゃってましたね。エンジニアさんは「早く帰りたいな」と思ってたかもしれないですが(笑)。

——(笑)。良い意味でガツガツしていたというか。

橘:スイッチが入った後は、まったく遠慮しなかったですね。プロとして第一線でやっている方々から良いアドバイスをたくさんもらって。こっちの知識はゼロでしたけど、なんとか食らいついて……。曲作りをはじめると誰もが1回は挫折するんですよ、絶対。そこで諦めなかった人がやれているだけというか。僕もすぐに「わけわかんない。もうダメ」と思ったんだけど(笑)、なんとかここまでやってきた感じです。

——必ず壁にぶち当たる、と。

橘:はい。主にアレンジですね。作曲はコードとメロディの組み合わせで何とかやれるかもしれないけど、アレンジは知識が必要だし、勉強しないとやれないので。もちろん音楽理論も学んだし、海外のトッププロデューサーが楽曲制作の工程を紹介している映像を買ったり。機材もかなり購入しましたね。ソフトもハードウェアもそうですけど、新しいものが出たら試してみないと気が済まなくて。だいぶ投資したので、もっと曲を作らないと回収できないな(笑)。

「がんばらなきゃ」ではなく気になって眠れないーー4年ほど続いた過酷な日々

——「If You Were My Girl」を作ったときの手ごたえはどうでした?

橘:ずっと曲を作り続けていたんですけど、「これだったらリリースできるかも」と思えたのが、この曲だったんです。作っても作っても思い通りの曲にならなくて、毎晩トライして。クリエイターの動画を見たり、周囲のトラックメイカーやエンジニアに質問することも続けていたんですけど、「同じことをやってるはずなのに、なんで上手くいかないんだろう?」という状態で……「If You Were My Girl」も偶然だった気がしますね、今振り返ってみると。そこまで理論をわかっていたわけではないし、とにかく音を重ねるなかで、まぐれでいいものができたというか。そういうことって、たまにあるんですよね。

——そのやり方だと、もう1回やろうと思ってもできないのでは?

橘:そうなんですよ(笑)。特にw-inds.の楽曲としてリリースできるレベルにはまったく届いてなくて。w-inds.の楽曲は第一線のトラックメイカー、作曲家に作ってもらっていたし、ただ“自分で作りました”というだけではなくて、肩を並べるところまでいかないとダメだと思っていたので。自分の曲が明らかに劣っているのもわかっていたし、もっとレベルを上げないとファンも納得しないだろうなと。メンバーが作った曲のクオリティが良くなければ、「自分で作らなくてもよかったんじゃない?」って思うじゃないですか。

——そのレベルに達した曲が2017年の「We Don't Need To Talk Anymore」だった、と。

橘:2013年から2017年まで、めちゃくちゃ勉強しましたからね。1日3時間くらいしか寝ない日々がずっと続いてたんですよ。「がんばらなきゃ」じゃなくて、気になって眠れないんです。夜中までやって、「こんな感じかな」と思うじゃないですか。朝起きて聴き直してみると「違うな」って。そんな状態が延々と続いていたので、結構つらかったですね、今思えば。

——しかもw-inds.の活動を続けながらやっていたわけですよね。

橘:そこなんですよ、問題は(笑)。家にこもって制作だけやっていたわけではないので。ただ、スイッチが入ると自分でも止められない。筋トレにハマってたときもそうだったんですけど、納得がいくまでやるしかないんです。そういう傾向は今もありますね。

——逆にそういう性格だから、わずか数年間でクリエイターとしてのスキルが身についたんでしょうね。「We Don't Need To Talk Anymore」を作ったときは、どんなビジョンがあったんですか?

橘:「We Don't Need To Talk Anymore」の制作は今でもよく覚えていて。ちょうどフューチャーハウス系が流行り始めたときで、そういうテイストの曲をクリエイターから集めてほしいとレーベルの方にお願いしたんです。海外から集めてもらったんですけど、ほとんどがファンクだったんですよ。「Uptown Funk」(マーク・ロンソン)以降に流行ったような。

——つまり、ちょっと前のトレンドの曲が送られてきたと。

橘:そう。「もしかして流行りから外れた曲を送ってきてないか?」と思って。そこで火が着いたというか、「だったら自分で作る!」と決心してできたのが「We Don't Need To Talk Anymore」だったんです。自分では半信半疑だったんですけど、メンバーとスタッフが「すごくいいから、この曲でいきましょう」と後押ししてくれて。

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