折坂悠太の歌はなぜ美しく生々しいのか 『オープン・バーン』東京初日公演から岡村詩野が考える歌い手の心理

折坂悠太『オープン・バーン』東京初日レポ

 血が流れている。どっしりと足元、さらに地中近くにまで重く潜み込んでいた、あのドロリとした血が、今ではどうだろう、太陽の下に飛び出さんばかりに熱く脈動し、彼の体の中をダイナミックに循環しているのがわかる。それも、拭い去れない“何か”を堆積させながら、それを纏う歓びを讃えながら彼はここに生きている。

 途中、ふとこんな言葉が頭をよぎった。

「生命とは代謝の持続的変化であり、この変化こそが生命の真の姿である」。

 これは生物の体内での代謝を追跡する方法を考えたドイツ生まれでアメリカの生化学者、シェーンハイマーの言葉である。言わば、生命体はその生物が生きている以上、代謝を重ねながら変化していくものだ、という生命観なのだが、折坂悠太というアーティストにずっと感じてきた喩えようもないほどに太い生命力は、まさにこうした代謝を伴うサーキュレーションそのものなのではないか? ということをこの日、筆者は改めて実感した。しかもその生命力とやらは、ただ繰り返し機械のように周回しているのではなく、確実に代謝……それは循環する中で溜まっていく堆積物をも纏っている。こんな例えが正しいかどうかはわからないが、今の折坂悠太は見た目には鍛えに鍛え抜いたアスリートのような肉体だが、筋肉とともに絶対に取り除くことができない脂肪もまたその内側に宿している。そして、彼自身、その取り除けない脂肪のようなものにも愛おしく接する。だから彼の歌はどこまでも美しく生々しい。掃除をしても掃除をしても部屋の隅っこにどうしても残ってしまう埃の積み重ねのような堆積物を必死で覆い隠したり、強引に取り除こうとせずそのままにしてあるような、そんなありのままの変化を折坂悠太の音楽は年々真実としてあぶり出していく。去年より今年、昨日より今日、生命は更新され続けるが、そこには確かな“淀み”も蓄積されていき、それをも引き受けることこそが真実なのだということを。

 折坂悠太の最新ツアー『オープン・バーン』、11月1日の東京公演初日を観た。ステージのやや左寄り……鍵盤奏者のyatchiの前あたりに、焚き火を模した赤いオブジェがあり、演奏中ずっとゆらゆらと灯っている。時にはパチパチという音も聞こえてくるし、折坂自身がその焚き火の横に座り、独り語りをしたり、手で鳩や犬の影絵を作ってみたりと、オーディエンスとともに焚き火を囲んでいる空間を演出した格好。これが生命、希望、共存などを意味していることは間違いなく、昨年のアルバム『心理』に伴ったツアーとは確実に異なる位相なのも、この日、『平成』の1曲目に収録されている穏やかな曲調の「坂道」に始まったことから明らかなことだった。ほぼ1年前に観たその『心理』ツアーのオープニングは言葉を持たない「kohei」。寡黙なまでに重い空気が場内を覆っていたあの日のことをどうしても思い出さずにはいられなかった。あの時、重奏という仲間はいるもののポツンとステージに佇んでいた人物と、今、不穏な未来に向けて逞しく一歩を踏み出す決意を讃えるように仲間たちと焚き火を囲んでいる人物は果たして同じなのかと目を疑うほどに。

 1年前、2021年に開催されたそのツアーの模様を少し思い出してみよう。『心理』というアルバム自体がその前の『平成』よりも、翳り、痛みを孕んだ作品だったこと、コロナ以降ようやくライブの現場が開きつつある状況だったこともあり、公演自体全体的に重い内容だったことが今も記憶に新しい。重い、というより、死が身近にあることの厳しさ、それでも生きていくことに支配されていたと言うべきだろうか。折坂には確かにスポットが当たっているのに、どこかぼんやりとした靄が終始舞台を包んでいるかのよう。「kohei」に始まり、「爆発」「心」「悪魔」……と最新作『心理』からの曲が冒頭から続いていたこともあり、バンドの演奏もフィジカルではあるものの少し抑え気味で、明けない夜明けがいつまでも続いている様子を意識的に表現しているかにも見えた。生命の在処を探りながら、死を前提にそれでも前に向かっていくことの正義……閉塞的な空気の中でじっと耐えながらそれでもその行方を見届けるストイシズム。折坂悠太というアーティストがずっと通底させてきたテーゼとも言える死生観のダークな側面が表出されていたと言ってもいいかもしれない。

 だが、今回のツアーは対極……とまでは言わないものの、重苦しさを振り解いた、軽やかささえ感じさせるものだった。そもそも折坂のライブパフォーマンスは、どんな編成であっても折坂自身が達観して生命の在り方を見つめているようなアングルを必ず携えているが、この日のステージはかなり場の空気を開放させ、自身をも邪気なく解き放っていたように思う。もちろんそれは決して放恣に流れていたという意味ではない。スッキリと軽やかに生まれ変わったという意味などでもない。むしろ、その歌声やアレンジ、演奏からは一年前のツアーで代謝させた堆積物、淀みを宿していることも伝わってくる。そう、年齢を重ねることで生まれる皺やシミのようなものが、開放に反転した表現という営みに深奥を与えていたのである。

 編成は昨年のツアーと同じ“重奏”。yatchi(Pf)、senoo ricky(Dr/Cho)、宮田あずみ(Cb)、山内弘太 (Gt)という“京都勢”に、ハラナツコ(Sax)、宮坂遼太郎(Per)が合流した息の合ったアンサンブルだ。合流といっても、折坂を含むこの7人に落ち着いてからすでに何度もステージを重ね、様々な場に出向き、多様な環境のもとで歌の行方を追いかけてきた同士と言っていい。コロナ禍の思うがままにいかない状況でぶつかった“生きる”という重みに対し、彼らが出した回答は『心理』という作品と昨年のツアーで一つの到達点をみたわけだが、この日の演奏はその時のストイシズムをただオープンな色調へと反転させただけではなかった。

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 一年前と同じエンジニアだろうか? と思わずPA席を見てしまったほど、音の処理に違いがある。それを密室感と言い切っていいかわからない。しかし、流動的な生演奏の音を完成度の高い作品へと瞬時にトランスレートするような緊密な作業が行われていたのにはとにかく驚かされた。どうしようもなく重くシリアスなムードを解き放った後に訪れる開放感を、いたずらに自由な表現に着地させるのではなく、それ自体に新たな意味を持たせようとする貪欲ささえそこにあった、というべきだろうか。むろん、『心理』の中では突出して躍動感のある「心」の、〈どうぞ〉の後の「どぅぞー!」には去年のツアーのそれと比べても明らかに逞しさが備わっていたし、「さびしさ」の二度目の〈吹いてくれ〉の“くれー!”にはこれまでにない本気の願いが込められていたようにも感じた。そのちょっとした歌い回しに一年前以上の太さがあったのは間違いない。その太さこそが、代謝による堆積物、淀みの表れだと言ってもいいだろう。バンドの演奏もその2曲はやはりわかりやすく跳躍していたし、逆に『心理』ではイ・ランをフィーチャーした、わけてもシリアスで美しい「윤슬(ユンスル)」を今回のツアーのセットリストから外していたのも象徴的だと言える。

 だが、全体を通して、決して開放されるがままにはすまいと演奏のアウトラインに密室的な処理を与えていたのには心底感心させられた。特に二度目の影絵と折坂の独り語りを経た後の新曲「オープン・バーン」~本編最後の「あさま」のダビーな音処理は見事という他なく(実際「あさま」はレゲエ~ダブの要素のある楽曲だが)、『オープン・バーン』という、ともすれば生演奏の荒々しさに寄せてしまいがちなこのツアーの約2時間を一つの完成されたパッケージにしようとさえする試みは特筆に値するだろう。そういう意味では会場の鳴り、響きを味方につけたPAとバンドのリレーションシップの勝利と言ってもいい。

 「生命とは代謝の持続的変化であり、この変化こそが生命の真の姿である」というシェーンハイマーの言葉を再び借りるなら、代謝させることで生命が持続していく様を、淀みや堆積物をうまく取り込みながら変化を与えることでデフォルメさせたパフォーマンス。一年前より様々な重しや痛みを宿したまま次に向かおうとするこの日の折坂悠太(重奏)は、誤解を恐れずに言うならば、明らかに“肥えて”いた。しかし、その“肥え”は弛緩によるものではない。生命を持続させるために必要な代謝によるものだ。その代謝が演奏と音をも変化させた。

 この日の公演の数日後、静岡県掛川市で開催されたフェス『FESTIVAL de FRUE』で再び折坂悠太(重奏)のステージを観た。こちらはツアーという枠組みを離れた分、一層、オープンになっていて、ツアーの打ち上げを楽しんでいるかのようだった。でも、決して緩んではいない。『心理』に参加しているアメリカはLAのアーティスト、サム・ゲンデルが同じ日に出演していたことも心地いい緊張感をもたらしていたのかもしれないが(6月に開催された系列フェス『FESTIVAL FRUEZINHO』の名古屋、大阪公演では折坂がサム・ゲンデルとサム・ウィルクスの公演に出演している)、11月1日のあの東京公演から、もう数日も経過していて体内に変化が訪れていることを彼はしっかりと演奏に刻んでいたのだ。折坂悠太というアーティストは、どれほどリラックスした場所であっても、どんな厳しい心理的状況にあっても、生命が代謝によって持続していくことに一定の自覚と責任を持って向き合っている歌い手だ。このあと12月には沖縄は桜坂劇場にて池間由布子をゲストに迎えた公演も決定している。日毎に一つ、二つの堆積と淀みで肥えた折坂悠太は決して二度と同じ歌は歌わない。生命の真理とはそういうものであることを彼はきっとよくわかっている。

■ライブ情報
『折坂悠太ツアー2022 オープン・バーン アジア・沖縄公演【那覇】』
12月17日(土)沖縄 那覇・桜坂劇場ホールA
【ゲスト】池間由布子 (band set)

『折坂悠太ツアー2022 オープン・バーン アジア・沖縄公演【コザ】』
12月18日(日)沖縄 コザ・ミュージックタウン音市場
【ゲスト】池間由布子 (band set)

折坂悠太 オフィシャルサイト
https://orisakayuta.jp/

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