渡辺美里と佐橋佳幸が振り返る、33年ぶりの伝説のライブの続き 共に音楽シーン走ってきた関係性も語る

WOWOWオリジナルライブ、渡辺美里×佐橋佳幸対談

 今年、5月5日に開催された『渡辺美里スペシャルライブ パイナップルロマンスのその先へ“雨のバカ~”2022』 が、6月26日午後4時よりWOWOWにて全曲ノーカットで放送・配信される。このコンサートは、1989年に西武球場で行なわれ、猛烈な雷雨により途中で中止となった伝説のライブの続きが33年ぶりに完奏され、さらに「その先」の渡辺美里の30数年に及ぶ代表曲を歴代のバンマスと共に披露したファン必見の内容となっている。リアルサウンドでは、渡辺美里と、80年代から90年代にかけてレコーディングとライブに参加した初代バンドマスターの佐橋佳幸による対談をお届けする。(佐野郷子)

共に青春を駆け抜けてきた仲間たちとライブを実現させたかった

ーー『パイナップルロマンスのその先へ“雨のバカ~”2022』は、1989年に西武球場で行なわれたライブの2日目が猛烈な雷雨により、演目途中での中止が決定してしまったことに端を発しています。その時に披露できなかった曲を、あらためて完奏しようという企画は美里さんのアイデアだったのでしょうか?

渡辺美里(以下、渡辺):そうです。コンサートができなかったコロナ禍の2021年に、様々なゲストをお呼びして配信限定ライブ『スタジオライブ うたの木』を開催し、山弦(小倉博和、佐橋佳幸)もお招きして、最少人数3人のスタジオライブをやったんです。

佐橋佳幸

佐橋佳幸(以下、佐橋):あの頃は、3人でも密になるのはどうなんだろう、みたいな時期だったね。

渡辺:その時に、そういえば、1989年の西武球場でのライブの2日目が途中で雷雨のせいで中止になって、「その先」をやってなかったなっていうのを思い出したんです。ただ、それを実行するとなると、やっぱり有観客でやりたいと思って。そんな考えを山弦とのライブの時に佐橋くんに提案したら、「それは面白い、やろうよ」って。

佐橋:あの時の西武球場は、お互い消化不良で終わっているからね。ずいぶん前の話ですけど、根に持つタイプなので(笑)。

渡辺:で、やるんだったら、お客さんを入れて、佐橋くん、山本拓夫くん、有賀啓雄くん、斎藤有太くん、奥野真哉さんという「歴代のバンマスが集合するライブはどうかしら?」と。

佐橋:美里の歴代のバンマス集合というアイデアも面白いと思ったんですよ。コロナで先のことが見えなかったこともあるけど、その全員が一堂に会して、ふさわしい会場で開催するとなるとなかなか大変でね。このメンバー、みんな未だに引っ張りだこですから。

渡辺:そう。まず、スケジューリングが大変なメンバーなので。

佐橋:ようやく実現できるめどが立ったものの、「89年の西武球場でやれなかった曲だけでは、コンサートとしては短すぎるんじゃない?」って言ったら……。

渡辺:「大丈夫! その後が33年ありますから」って(笑)。

佐橋:そうそう。「じゃあ、それがわかるタイトルのライブにしたいね」って言ったら、しばらくして美里からメールがきたんだよね。

渡辺:それが『パイナップルロマンスのその先へ “雨のバカ~”』でした。

佐橋:コンサートの一部は、89年の西武球場の「パイナップルロマンス」以降のセットリストを完奏して、換気休憩を挟んでの二部はそれ以降から現在に至る曲をやることになったんだけど、美里が言う通り、その先のほうが断然長いわけですよ。

渡辺:そこでメドレー大作戦を駆使しました。

佐橋:そういう場合、今は打ち込みと同期しながらやるのが普通なんだけど。

渡辺:今回は全部生ですからね。

佐橋:ライブのメドレーのために二人でスタジオに入って、僕のアコギ1本で美里が歌いながら作っていったんですけど、もうちょっとわかりやすいものにしたくて。今回は参加できなかったんだけど、美里の歴代バンマスでもあるマニピュレーター兼マルチプレイヤーのスパム春日井くんにデモ音源をつくってもらって、僕の書いた譜面と共にメンバーに前もって送っておいたんですよ。

渡辺:ただでさえみなさん素晴らしいミュージシャンなのに、そのデモ音源をきちんと予習してきてくださって、リハーサルの1日目から、明日本番ができるんじゃないかっていうぐらい仕上がっていたんですよ。

佐橋:一部と二部併せて、この曲数だから、「みなさん、頑張ってください!」とか生意気なこと言っていたら、すんなりできちゃって。

渡辺:でも、それもこのメンバーだからできたことなんですよね。

――1989年7月26日に西武球場で行なわれたライブ『SUPER FLOWER bed BALL’89』は、アルバム『FLOWER bed』がリリースされた後の開催でしたね。

渡辺 そうです。アルバムがリリースされて、それを携えてのライブツアーでした。

佐橋:『FLOWER bed』は僕にとっても思い出深いアルバムで、初の海外レコーディングだったんです。ジェフ・ポーカロやヴィニー・カリウタなど錚々たるプレイヤーたちとニューヨークとロサンゼルスでレコーディングして、まるで音楽武者修行のようだったんですよ。美里は、デビューして何年目だっけ?

渡辺:1985年デビューだから、まだ4年目。『eyes』、『Lovin’ you』、『BREATH』『ribbon』の次です。

佐橋:すごい! 4年で5枚も作ってる! 『Lovin’ you』は2枚組だから6枚か!

渡辺:ホントによく働きました(笑)。だから、365日のうち360日はレコーディングかツアーで佐橋くんと一緒にいた記憶がある。

佐橋:ツアー中もレコーディングのために東京に戻ったり、あの頃は、毎日曲のことを考えていた気がするね。大江千里さん、小室哲哉さん、岡村靖幸さんといったソングライターが美里のために次々と新しい曲をつくってきた。

渡辺:ツアー先でもデモテープを聴いて、佐橋くんとアレンジを考えていましたね。

佐橋:この前、実家のおふくろから「邪魔な段ボールがあるから送る」って電話があって、開けてみたら、当時のラフミックスのカセットが出てきたんだよ。

渡辺:でも、お母さんにとっては邪魔なのね(笑)?

佐橋:そう(笑)。ただ、ラフミックスなので、外には出せないんだけど。

渡辺:それ、まだ仮歌詞でしょ?

佐橋:仮タイトル、仮歌詞。そういえば、「センチメンタル カンガルー」は、歩いている途中であのリフを思いついて、忘れちゃうといけないと思って自分の家の留守番電話に歌って吹き込んだんだ。カセットの入った段ボールを開けながら思い出しましたよ。

――1989年の西武球場は2日間の開催だったのですね。

渡辺:そう。1日目はちゃんとフルでできたんです。でも、ちゃんとできなかった2日目のコンサートのほうがみなさんの印象に残ってしまって、いつしか「伝説」と言われるようになったんです。

佐橋:今回のセトリに「My Revolution」とかが入っていないのは、その前に演奏しちゃったから(笑)。いつもやっているヒット曲や重要な曲がないのはそのせいです。

写真=荒川潤

ーーあの日は、コンサートの後半に猛烈な雷雨に見舞われてしまった?

渡辺:そう。後半のこれから盛り上がっていくぞっていうところだったんです。衣装チェンジで袖に捌けた時、バックステージに消防署や警察の人たちが集まって、「これは危ないから、即座に中止してください」って。

佐橋:後からライブの映像を見て思ったけど、あれは外に出ちゃいけないレベルの土砂降りでしたね。

――映像にも残っている美里さんの「青春のバカヤロー! 雨のバカー!」はその時、思わず口に出た言葉だったんですか?

渡辺: 思わず出ちゃったんです。そのとき、「人生ってうまくいかない」って言いそうになったんだけど、弱冠23歳でその言葉はまだ早いと思ったのと、こんなにずぶ濡れになるのは青春ドラマでしか見たことないと思って、「青春のバカヤロー! 雨のバカー!」にパッと変換したんです。普段なら絶対口にしないようなことをポロッと言っちゃった。

ーー悔しさと無念から咄嗟に出た言葉が、名セリフとして後々まで語り継がれることに。

渡辺:「人生ってうまくいかない」だったら、たぶんこんなに語り継がれることにはならなかったと思うし、自分も後悔したでしょうね。あの時の自分は「青春のバカヤロー! 雨のバカー!」以外の言葉のチョイスがなかった。

佐橋:当時から名コピーライターぶりを発揮していたんだよね。

――中止が決まり、土砂降りの中、一人アカペラで「My Revolution」を歌うシーンも印象的でした。

渡辺:「パイナップルロマンス」で中止が決まったものの、コンサートが中断するなんて滅多に起きることじゃないから場内がざわついて、収まらない感じだったので、「すき」の後に、アカペラで歌ったんです。

佐橋:俺たちバンドが引っ込んだ後だったね。ステージを降りたら、「あれ、美里が一人で何かはじめたぞ?」って。

渡辺:そういう貴重な経験をしながら、共に青春を駆け抜けてきた仲間たちと、この『パイナップルロマンスのその先へ“雨のバカ~”2022』は実現したかったんです。佐橋くん、有賀くん、拓夫くんは先輩だけど、共に音楽シーン走ってきたという気持ちがあるんです。最近一緒にツアーを回っている奥野さんは、丙午の同い年ですが、同じ時代を見てきた仲間ですし。

佐橋:美里の周りにはそういう息の長い優れたミュージシャンが集まってくるんですよ。

写真=片桐寿憲

ーー美里さんと佐橋さんは都立高校の同窓生ですが、実際に出会ったのは? 

渡辺:佐橋くんは同じ<エピック・ソニー>(現在のエピックレコード・ジャパン)からデビューしたUGUISSというバンドにいて。バンドが解散した後に、私がデビューすることになり、絶賛売り出し中のスーパーギタリストがいると<エピック・ソニー>のディレクターから聞いていました。

佐橋:UGUISSが解散して、これからどうしようというときに同じ高校の先輩でアレンジャー/プロデューサーの清水信之さんが「今度、俺たちの高校の後輩がデビューするんだけど、ギター弾きに来ない?」って誘ってくれたのが、「きみに会えて」(1stアルバム『eyes』収録曲)だったんです。でも、僕のギターのレコーディングの日は、美里は別の仕事が入っていて会えなかったんです。

渡辺:私、ほとんどレコーディングに立ち会っているんだけど、なぜか佐橋くんの「きみに会えて」の時だけは会えなかった。

佐橋:その後、リハーサルスタジオで見かけて、「あのー、佐橋です」って話かけたのが最初かな。その時はもう『Lovin’ you』のレコーディングが始まっていたんでしょ?

渡辺:『eyes』の時にはすでに『Lovin’ you』も録り始めていましたね。

佐橋:プロデューサーの大村雅朗さんにも『Lovin’ you』のレコーディングに呼んでもらって、そのうち美里が初めて全国ツアーをやることになり、「佐橋くんはレコーディングに参加してくれているし、こっちの事情もわかっているから、ツアーも参加してもらってもいいかな?」と。

――ツアーに参加することになったのは『eyes』の後ぐらいですか?

佐橋:たぶんそう。「My Revolution」がヒットしている最中だった気がする。

渡辺: 1986年の1月に「My Revolution」が出て、そのツアーが最初だったのかな? その後が初の西武球場だった。

佐橋:たまたま同じ高校だったっていうのも縁なんですけど、当時は都立高校に群制度っていうのがあって、目黒と世田谷と渋谷に住んでいる人たちは受験すると自動的にこの高校ですって振り分けられたんです。

渡辺:それはね、佐橋くんの時代(笑)。私の時はその制度は変わっていたんだけど、地域性からくる親近感は確かにあったかもしれない。

佐橋:僕らは東京の城南地区の育ちになるんだけど、そういう繋がりは大きいよね。清水信之先輩、EPO先輩、美里を輩出したから、僕らが通っていた学校は「都立の堀越」って呼ばれたりして(笑)。

――『eyes』は、佐橋さんにとってもスタジオミュージシャンとしては最初期のお仕事ですよね。

渡辺:そう。若手のホープだったんです。

佐橋:若手と言われて40年(笑)。僕は1985年ぐらいからスタジオの仕事をはじめたので、まさに美里のデビューと同じタイミングなんですよ。

――初の西武球場でのコンサートは1986年でした。

渡辺:85年の5月にデビューして、10月ぐらいに「来年、西武球場でコンサートやってみる?」ってマネージャーから言われたんです。まだ売れるかどうかもわからない私に声をかけてくれたことも驚きですが、その後20年続いたんだから、きっと強力な縁があったんだろうなって思います。

佐橋:単独でのスタジアムライブは美里が女性ソロでは初でしょ?

渡辺:そうみたい。

佐橋:あの頃はまだスタジアムでコンサートを見た記憶はあまりなかったから、初めて西武球場に行ったときは、「デカ! 何これ?」って思ったもん。嬉しくて、キャッチボールやったよね。

渡辺:その頃はいつもスタジオにばかりいたので、アウトドアが新鮮で。86年の時は、まだ屋根がないスタジアムでした。

佐橋:初の西武球場のライブには、小室のてっちゃん(哲哉)も参加してね。いつものツアーとは違う内容でやったよね。

渡辺:ツアーのスペシャル版がスタジアムライブという位置づけでしたね。ホーンセクションが入ったり、毎年いろいろ工夫して20年も続くことに。

――MISATO & THE LOVER SOULというバンド名はいつぐらいについたのですか。

渡辺:『ribbon』のとき、「19才の秘かな欲望」を当時のツアーメンバーでレコーディングすることになって、じゃあ名前を決めようとなったんです。この曲はアルバム(『Lovin’ you』)では大村雅朗さんがアレンジしてくださったんですが、ツアーではライブ用にアレンジして歌っていたんです。

佐橋:ツアーでやっていたアレンジがけっこういいから、あらためてレコーディングしようという話になったんです。話は逸れますが、GLAYのTAKUROくんは、俺たちのバンド名を後に事務所の名前にしちゃったくらいファンだったみたいで、あれには驚いたなぁ。

渡辺:TAKUROさんは熱心に聴いてくれていたみたい。函館から西武球場まで観に来てくれたこともあったって。

佐橋:LOVER SOULの頃は、ツアーを重ねてバンドも安定してきていたから、「今日は、ここはちょっと違う曲にしよう」とか、ツアー中にセトリを変えてもメンバーは対応できる状態だったね。

渡辺:あの頃は、移動中も曲順ばっかり考えていました。

佐橋:新作が出て、「さあ、これを聴いてもらうぞ!」っていう時は、当然ながら勢いはあるんだけど、新曲とみんなが望んでいる曲をうまく組み合わせながらセトリを考えなきゃいけないからね。

ーー佐橋さんは初代バンドマスターとしてライブで活躍しながら、美里さんのアルバムでは3枚目の『BREATH』あたりから、楽曲提供の比重が高くなっていますね。

佐橋:そうですね。僕がUGUISS時代から曲を書いていたことを知っている<エピック・ソニー>のスタッフが曲を依頼してくれて、ソングライター、ミュージシャンも含めてだんだんチーム美里という感じになっていったんじゃないかな。

渡辺:デビューしてからしばらくは、音楽的にもいろいろ試したかったんですよね。

佐橋:美里はポップスとして完成度の高いヒットシングルも出しているけど、今回のライブで、あらためて初期のアルバムも聴き直してみたら、シングル以外の曲はけっこう冒険しているし、トンがっているんですよね。

渡辺:たとえばどの曲?

佐橋:「19才の秘かな欲望」なんてワンコードのファンクじゃないですか? そういうのを、好んでやっていたのも驚きだった。

渡辺:そうね。岡村(靖幸)ちゃんの曲は大胆で面白かったですね。

佐橋:伊秩弘将さん、木根尚登さんなども楽曲提供したり、美里にはこんな曲がいいんじゃないかってみんなが競い合うように曲を書いていた状態でしたね。

ーー佐橋さんが作曲した「センチメンタル カンガルー」も1988年にシングルになりました。

佐橋:それで初めて自分用の機材車を買ったら、みんなに「カンガルー号」って名付けられたんだ(笑)。まあ、こっちが音を作っている間に美里は歌詞を書かなきゃいけないから大変だっただろうけど。

渡辺:でも、様々なタイプの異なる作曲家を組んだおかけで、自分でも思いもよらぬ言葉やストーリーが書けたというのもありますね。それぞれアプローチも世界観も違うから、3パターンくらいストーリーが書けるほどイメージが浮かぶんです。ウナギの香りだけでごはんを三杯食べるかのように(笑)。

佐橋:その歌にどんなお化粧、アレンジをするかは、後で考えることであって、しっかりしたメロディと歌詞があれば、そこから世界が広がっていくものなんですよね。

ーーチームが一体となって美里さんの音楽に関わっていたことは大きいですね。

佐橋:そう。美里の現場って、当時としてはわりと近い世代で作っていたんじゃないかな。初期は今剛さんや松原正樹さんのような先輩のギタリストも参加されていますが、そんな中に僕のような若手を面白がって起用してくれた。ほかの現場では、「そのターギー(ギター)の子、なんて名前なの?」みたいな旧態依然とした雰囲気も残っていたけど、美里の現場はそうじゃなかった。それがよかったんだと思う。

渡辺:今、振り返ってみると、いろんなことが変わりつつある時代だったと思うし、そういうフレキシブルな状態で音楽を作る空気に溢れていたと思います。

佐橋:そうだね。エンジニアの人もいろんなサウンドを試してみようという気概にあふれていた。

渡辺:そういう環境を与えてもらっていたことは感謝したいですね。

写真=荒川潤

佐橋:時間はなかったけどね。当時、24時前に家に帰ったことは、あんまりなかったな。朝、スタジオから二人で帰ったよね。

渡辺:「よく朝帰りしたね」って言うとなんかあやしいふたりみたいですけど(笑)、佐橋くんがバンマスの時代はほぼ毎日のように顔を会わせていたし、その後もレコーディングやライブでも要所要所で関わってくれて。

佐橋:バンマスを退いて以降も美里に会わなかった年はないよね。1年に春と秋、2回全国ツアーがあって、夏に西武球場。それが何年間も続いていたっていうのも今考えるとすごいよね。

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