小説『モンパルナス1934~キャンティ前史~』エピソード9 万博と映画祭 1937-1939 村井邦彦・吉田俊宏 作

『モンパルナス1934』エピソード9

万博と映画祭 1937-1939 #3

 数日後、紫郎は1人で戦争文化研究所を訪ねた。仲小路は不在だったが、小島がいた。ほかに20代から30代の歴史学者や学生、海軍、陸軍の将校らが何人かいて、1938年9月12日に行われたヒトラーの演説について議論を闘わせていた。隣国チェコに対し、ズデーテン地方の割譲を迫る演説だ。オーストリアに続いて、ヒトラーの領土的野心がチェコに向けられているのは明らかだった。
「威彦さん、ご相談があります」
「どうした。珍しいね、紫郎君が妙にかしこまって」
「イタリア大使館の友人から『イタリア』という雑誌を出してくれないかと頼まれたのです。一度、会ってやってくれませんか。威彦さんと同年配か、もう少し若いかな。オッタビオ・ロンバルディという参事官です。威彦さんと同じくらいハンサムで、いいやつなんですよ」
「あははは。帰国したばかりなのに、もう外国人と仲良くなったのかい? 紫郎君らしいな」
「彼の親戚がパリにいて、ちょっとした知り合いだったんです。駐日イタリア大使館にいるのに日本語はたいしてうまくありませんが、フランス語は堪能なんですよ」
「分かった。今度会ってみよう」
「それから、もう一つご相談があります。これなんですが」
 紫郎は鞄から金属製のフィルムケースを取り出した。
「まさか、これは例の?」
「ええ、そうです。『大いなる幻影』ですよ。上映禁止になったと正式に通告されましたから、検閲に出したフィルムは恐らく返却されないでしょう。予備のプリントを持ってきておいてよかった。一般公開はできなくても、心ある日本の知識人には見てもらいたいんですよ」
「隠れて秘密上映会でもやろうっていうのかい。もし見つかったら、今度は僕の力ではどうすることもできないぞ」
「あの小野寺っていう特高の警視が飛んできたりして」
「冗談じゃないぜ。そいつを持っているだけで危険だな」
「長者丸の新居の庭にでも埋めておきますよ。頃合いを見て、ここ掘れ、ワンワンと吠えますから、皆さん、スコップを持ってきてください」
 紫郎が軽口をたたくと、周囲の男たちが一斉に笑った。

 紫郎はその足で有楽町からイタリア大使館に向かった。田町駅で降りて、たばこ屋の角を曲がって狭い路地に入ったとき、後ろでカラスがカアと鳴いた。それで尾行されていると気づいた。白い開襟シャツの小柄な男だ。ハンチング帽を目深にかぶっている。見覚えがあるような、ないような…。いったい何のつもりだ。
 紫郎が歩を速めると、ハンチングの男もスピードを上げた。間違いない。追われている。やれやれ。東京でも追いかけっこか。まさか鮫島と同じように、実は紫郎の護衛をしているということはあるまい。
「よーし、一気に振り切ってやるぞ」
 紫郎は大通り目がけて猛ダッシュした。案の定、ハンチングもあわてて追ってくる。紫郎は2つ先の角を曲がり、また路地に入って、ごみ箱の陰に身を隠した。もう大丈夫だと思ったら、相手は迷わず同じ路地に入って突進してきた。
「まずいな。あいつ、速いぞ」
 紫郎はまた走りだした。狭い路地を何度か曲がって、ビルの間の細い道を走った。車道に出ると、酒屋の店先でラムネをラッパ飲みしていた若い男が紫郎の勢いに驚いて尻もちをついた。慶応の学生だろうか。振り向いて「ゴメン、ゴメン」と叫んだら、学生の向こうに男が迫ってきていた。カラスがまたカアと鳴いた。
 これだけ走っても振り切れない相手は初めてだ。だんだん息が切れてきた。船の上でもっと運動しておけば良かったと反省した。
「よし、あと50メートル。何とか逃げ切れるかな」
 紫郎はイタリア大使館に駆け込んだ。ずんぐりした中年の守衛と顔なじみになっていて良かった。片言のイタリア語で事情を説明すると、彼は笑顔で「ダッコルド」と叫んで固く門を閉ざした。紫郎は追ってきたハンチング男の背格好を柵越しに見て、目に焼きつけた。ツクツクボウシがのんきに鳴いている。あの男は何者なんだ。仲小路や小島の仲間なのか。
「やあ、シロー。例の件、小島さんに話してくれましたか」
 迎えてくれたロンバルディが紫郎よりずっと流暢なフランス語で言った。体にぴったり合った細身の背広を着こなしている。グリーンのネクタイを見て、紫郎はさっきの学生のラムネを思い出した。
「ええ、従兄は前向きでしたよ。ただ、なぜ雑誌を作りたいのか、イタリア大使館の真意がもう一つ分からないと首をかしげていました」
「ははは。用心深い方ですね。いや、今のご時世、当然の心構えかもしれません。私たちはイタリア・ファシズムの宣伝をしようというのではありませんよ。我が国は文化の宝庫ですから、絵画、彫刻、音楽、それに現代の自動車でも、何でも必要な材料を提供いたします。私たちは編集に関与しませんし、経費は私に請求してくだされば結構です」
「そんな良い話はまたとありませんね。従兄に伝えておきます」
 ロンバルディはグラスを2つ取り出して、紫郎に赤ワインを勧めた。シチリア島のワインだという。
「ありがとう。いただきます。ところでオッタビオ、一つお願いがあるのですが」
「何でも言ってください」
「この鞄を預かってくれませんか」
「中身は何でしょう」
「映画のフィルム。事情があって、上映が禁じられているのです」
「なるほど。あえてタイトルは聞かないことにしましょう。私にお任せください」

原智恵子(左)と川添紫郎(川添象郎氏提供)

 翌日の夜、紫郎は市電を乗り継ぎ、恵比寿長者丸で降りて新居に帰った。鉄筋コンクリートで造られた白亜のモダンな洋館だ。盛んにコオロギが鳴いている。ここ数日で急に秋めいてきた。
「おかえりなさい。ちょうど良かったわ。あなた、大変なのよ」
 出迎えた智恵子は珍しく取り乱していた。結婚式を2日後に控えた婚約者同士だが、すでに新居で同居している。
「あれ、誰かお客さんかな」
 紫郎は男物の黒い革靴を目にして訊いた。
「ええ、威彦さんがいらしてるわ。でも大変なのはそんなことじゃないの。あなた、そこから庭に回ってちょうだい」
 紫郎が庭に行くと、居間のテラスに小島と智恵子が腕組みをして立っていた。
「やあ、威彦さん。いらっしゃっていたのですか」
「うん、お邪魔しているよ。さっき来たばかりなのだが、驚いたね。あれをごらんよ」
 庭の至るところに穴が掘られている。植えたばかりのイチジクやバラの木も無残な姿になっていた。
「ひどいでしょう? 帰ってきて洗濯物を取り込む時に気づいたのよ。全くなんてこと…」
 智恵子が泣きそうな声で叫ぶと、コオロギが鳴きやんだ。
「これ、もしかして…?」
 紫郎が小島の顔を見て言った。
「うむ。ここ掘れ、ワンワンだ。間違いないな」
 小島が髪をかきむしった。
「きっと、あの男の仕業だな」
 紫郎がうつむいてつぶやいた。
「紫郎君、心当たりがあるのかい?」
「ええ。昨日、威彦さんと別れた後、三田のイタリア大使館に向かったのですが、尾行されていたんです。こっちが走ったら、追いかけてきましてね。とにかく、やたらと足の速い男で…。ぎりぎりのところで大使館に駆け込んだんですよ」
「紫郎君が速いっていうんだから、本当に速いんだろうね。状況から考えて、あのとき戦争文化研究所にいた人間の誰かだろう」
 小島が言うと「あるいは、その誰かから命令を受けた何者かでしょうね」と紫郎が応じて、それきり2人とも黙ってしまった。
「ねえ、どういうことなのよ。ここ掘れ、ワンワンって。大判、小判がザクザク出てきたっていうこと? ああ、そうか。ここの地名が長者丸っていうのは、大判小判伝説があるからなのね?」
 智恵子が迷推理を披露してくれたおかげで、ようやく2人に笑顔が戻った。
「おチエ、詳しいことは後で話すよ。とにかく、いくら掘っても何も出やしないさ。やっこさん、あきらめて手ぶらで帰ったんだ」
 紫郎が笑いながら言った。
「紫郎君、フィルムはどうしたんだ。もちろん埋めたわけじゃないんだよな」
「はい。例のイタリア大使館の参事官に預けてきました」
「なるほど、それならひとまず安心だな。それで参事官は何か言っていたかな?」
 紫郎は前日ロンバルディから聞いた話を漏らさず小島に伝えた。
「そいつは願ってもない好条件だな。よし、僕の親友、今藤茂樹を編集長に据えて、大判の美術雑誌のような体裁でやってみよう。文学や芸術の話は丸山熊雄、建築は坂倉準三、政治経済は僕の五高時代の同期で同盟通信にいる波多尚に書いてもらおう。五高の同期なら清水宣雄もいるな。彼は京大の美学の大家、深田康算さんの門下にいたんだ。まさに多士済々だな」
「仲小路さんも筆を執られるんですよね?」
「うーむ。実はね、仲小路さんは『戦争文化』という名の総合雑誌を出したがっているんだよ。もはや『改造』や『中央公論』はアンシャンレジーム(古い体制)だと言ってね。いくらなんでも金がかかりすぎるから、僕は反対しているんだけどさ。その点、こっちはイタリア大使館が金を出してくれるから、すぐに実現しそうだね」
「はい。明日にでも威彦さんの話を参事官に伝えます。ところでフィルムの件はどうしましょうか。研究所にやたらと足の速い、小柄な男はいませんか? 目深に帽子をかぶっていたから、顔はよく分かりませんが」
「うーん。心当たりはないなあ。以前、箱根駅伝で区間記録を出したという早稲田の男がいたけど、最近は見かけないしね。とにかく、しばらく様子を見よう。急に研究所に来なくなる男がいたら、そいつが怪しい」

 雑誌「イタリア」は1938年10月に創刊した。バチカン宮殿のシスティーナ礼拝堂にある天井画の一部「預言者ヨナ」を表紙に使い、イタリア首相ムッソリーニの祝辞を筆頭に、文部大臣荒木貞夫の「『イタリア』誌の創刊に寄す」、小島威彦の「東京・羅馬・伯林」、清水宣雄「映画シピオネ(1937年のイタリアの国策映画『シピオネ』論)」など、多くの随想や論考が載った。
 表紙の絵として小島が希望したのはミケランジェロの「アダムの創造」だったが、ロンバルディの意見を採用して「預言者ヨナ」に変更された。旧約聖書のヨナ書によれば、アッシリアの都市ニネベはヨナの預言のおかげで滅亡を免れた。「日本やイタリアが滅亡するとは思いませんが、国難を逃れる英知を授けられる雑誌になるといいですね」とロンバルディは言った。

 紫郎は1939年に入るとパリに戻り、国際文化振興会の海外調査員とフィルム・エリオス代表の仕事に明け暮れた。小島の紹介で同盟通信のパリ支局嘱託の肩書も得て、ヨーロッパの映画や音楽、美術に関する雑報やコラムを日本に送っていた。
 親友のキャパとは疎遠になってしまった。彼は1938年に中国に渡り、精力的に日中戦争を取材した。中国共産党の本部内でマルクスの肖像画の前に立つ周恩来をカメラに収め、漢口の最高参謀会議を主宰する蒋介石の姿まで写している。日本軍の進軍を阻むため、蒋介石が黄河の堤防を爆破して意図的に洪水を起こしたというニュースは紫郎も知っていたが、キャパは実際に現地を訪れ、渡し船に乗る中国兵の姿を撮っている。グラフ誌で彼の写真を目にするたびに、親友の心が離れていくようで、紫郎の胸はズキズキと痛んだ。
 紫郎が日本を離れている間に、戦争文化研究所から総合雑誌「戦争文化」が刊行された。仲小路は雑誌「イタリア」の内容に物足りなさを感じ、この雑誌の創刊を断行したのだ。
 小島から送られてきた「戦争文化」の創刊号(1939年3月号)は、赤地に「戦争文化」の題字を白く染め抜いた分厚い雑誌で、巻頭には「日本世界主義の全面的樹立!」「近代の西洋社会文化を否定し、これに代る日本的世界秩序を強力に確立せんとする」といった激しい文章が躍っている。紫郎が送った「日本的映画の創建」や小島威彦、深尾重光、城戸又一といったおなじみの面々のほか、小島の同期という清水宣雄や波多尚らの原稿も載っていた。
 これで良かったのだろうか……。紫郎は何度か自問したが、刻々と変わる世界情勢がその答えをかき消してしまった。
 1939年8月、満州とモンゴルの国境付近で起きた日本軍とソ連軍の大規模な衝突、いわゆるノモンハン事件の戦闘がいよいよ激しくなり、ソ連軍が大攻勢を始めたというニュースを聞きながら、紫郎はパリを発ってイタリアに向かった。国際文化振興会から派遣される形で、ヴェネチア国際映画祭の日本代表団の一員に加わったのだった。
 ヴェネチアに着いてすぐに届いたニュースが「ドイツとソ連、不可侵条約を締結」だった。紫郎は仰天した。ドイツは日本と防共協定を結んでいたのではなかったか。紫郎は何がなんだか分からなくなって、急に言いようのない孤独感に襲われた。妻となった智恵子はパリでリサイタルがあるから同伴していない。こんな時、せめて長年の相棒、井上が一緒にいてくれたらいいのに。
 井上は今ごろ、帰国の途についているはずだ。ベルリン、ワルシャワ、プラハ、ウィーンとナチスの暴風が吹き荒れる土地を訪ねた後、ローマに立ち寄ってから日本に向かうと話していた。
「もしもし、イノ。良かった、捕まえたぞ。まだローマにいたんだね。帰国を少し先に延ばせないかな」
 紫郎はホテルに電話して、井上を呼び出した。
「久しぶりだね、シロー。明日は南イタリアまで足を延ばして古代ローマの遺跡を見てくるつもりなんだ」
「予定をキャンセルして、ヴェネチアに来ないか。一緒に映画祭を見よう」
「ははは。強引だなあ。いかにもシローらしくて、うれしくなってきたよ。よし、分かった。すぐに行くよ」

 1939年のヴェネチア国際映画祭には、4つの日本映画が出品された。「土」(日活、内田吐夢監督、ドイツ語版)、「兄とその妹」(松竹、島津保次郎監督、フランス語版)、「上海陸戦隊」(東宝、熊谷久虎監督、イタリア語版)、「太陽の子」(東京発声、阿部豊監督、英語版)。
 前年のヴェネチアで「五人の斥候兵」(日活、田坂具隆監督)がイタリア民衆文化大臣賞を受賞しているから、日本側は「今回も受賞を」と相当に力が入っていた。
「おい、見ろよ。あの集団」
 井上が上映会場の方を指さした。
「ドイツの代表団だね」
 長々と続く赤いカーペットの上を白人の大男たちがのし歩いている。半数近くがナチスの軍服を着ている。周囲には各国の記者が群がり、盛んにシャッターを切っている。大男たちの中心に、ひときわ背の低い背広姿の男が見えた。
「ゲ、ゲッベルスだ」
 紫郎が叫んだ。
「ナチスの宣伝大臣か。意外と華奢な体だね」
 井上の言う通り、映画祭の会場を我が物顔で歩く周囲の軍人たちとはまるで雰囲気が違う。記者たちから盛んに何か質問されているが、巧妙にはぐらかしている。この場で見る限り、何とも物静かな男だ。
「想像していたのとはイメージが違うなあ。ナチスがやっていることの善悪はともかくとして、ゲッベルスの宣伝の力は認めざるをえないと思っていたんだ」
 紫郎が言った。紫郎が日本に送った映画「大いなる幻影」の上映が阻止されたのも元をたどれば、この男の一存によるのだ。
 「大いなる幻影」はフランス映画として1937年のヴェネチア国際映画祭に出品され、評判を呼んだ。イタリアの独裁者ムッソリーニもこの作品を大いに気に入ったのだが、ドイツの圧力を受けて、最優秀外国語映画賞は「大いなる幻影」ではなく、同じフランス映画の「舞踏会の手帖」に決まったのだとイタリア大使館のロンバルディが明かしてくれた。
 ゲッベルス…。紫郎にとっては憎き相手だが、興味はあった。
「ゲッベルスの宣伝の力か。宣伝、つまりプロパガンダだね」
 井上が言った。
「政治の場合はそうなるね。しかし芸術にも宣伝は必要だよ。いくら良い芸術を生み出しても、人に見られたり、聴かれたりしなければ成り立たないからね。熱狂を作り出し、それを拡散するゲッベルスの手法は、悔しいけど認めざるを得ない。ベルリン・オリンピックの開催をヒトラーに勧めたのも彼なんだろう? ベルリン五輪はプロパガンダとしては成功したといえるだろうね。まあ、政治でやるからおかしなことになるわけで、うまく芸術に応用できればいいんだけどね」
 紫郎はゲッベルスから目を離さずに言った。
「芸術に応用したのは、パリ万博だったんじゃないかな」
 井上が言った。
「いや、あれも大枠では政治的なプロパガンダといえるんじゃないかな。フランスがパリ万博に力を入れたのは、人民戦線政府の文化的な達成をアピールするための国際的なデモンストレーションだったと思わないか? ただ、個別のイベントやパビリオンを見れば、芸術そのものの力を引き出し、世に示したともいえる。ピカソの『ゲルニカ』も、サカの日本館にしても、芸術そのものだからね。あの万博がなければ、ピカソやサカの作品は世に出なかったわけだし」

紫郎たちの仲間でもあったバイオリニスト、諏訪根自子に名器ストラディヴァリウスを贈呈するドイツのゲッベルス宣伝相。2人の間の男性は大島浩駐ドイツ大使(1943年2月22日、ベルリン、萩谷由喜子『諏訪根自子』p.129より)

 紫郎が話しているうちに、ドイツの一行は去っていた。
 この日、紫郎と井上が見た日本映画は「土」だった。原作は長塚節の有名な小説で、明治時代、北関東の農村が舞台だ。搾取の限りを尽くす地主に全く頭が上がらず、どんどん卑屈になっていく貧しい小作人たちのみじめな生活を徹底したリアリズムで描いている。日本では大ヒットし、高く評価されたと紫郎は聞いていた。
 紫郎たち関係者は2階、一般の観客は1階席で鑑賞した。他国の作品には、終幕後に1階から「ブラボー」の声が湧き上がったが、「土」が終わっても階下は静まり返っていた。2階では儀礼的な拍手が起きたが、それに応えながら2人が1階を見渡すと、ほとんどの客が帰ってしまい、空席ばかりが目立っていた。
「重厚な良い映画だと思うけど、一般客には受けなかったのかな。2階のドイツ人やイタリア人の拍手は明らかに社交辞令だよ。身の置き所がないとはこのことだな」
 井上がぼやいた。紫郎は何も言わず、唇をかんでいた。
 どこかの国の記者が英語で声をかけてきた。中年の白人だ。発音から推して英国人だろうと紫郎は思った。
「まるでロシアの農奴じゃないか、あれは。トルストイの小説を思いだしたよ」
 紫郎はその言葉に衝撃を受け、がっくりとうなだれた。
「ねえ、イノ。僕は『土』が悪い映画だとはいわないよ。むしろリアリズムに徹した佳作だと思う。しかし、あの記者の言う通りだ。トルストイか。参ったね。これからは日本にしかない真にすぐれた作品、日本ならではの美しい文化を世界に紹介しなくてはいけないね」
 紫郎が言うと、井上も彼の肩に手を置いてうなずいた。
 ドイツがポーランドに侵攻し、英国とフランスがドイツに宣戦布告したのは、その数日後のことだった。ついに新たな世界大戦の火ぶたが切って落とされた。(つづく)

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