『THE ESSENCE OF SOIL』インタビュー
SOIL&“PIMP”SESSIONS 社長×俳優 松尾諭、ディープなジャズ談義 「音楽も芝居も全てにリズムがある」
前作『MAN STEALS THE STARS』からおよそ1年3カ月ぶり、SOIL & ”PIMP”SESSIONSの新作『THE ESSENCE OF SOIL』がリリースされる。
本作は初めてジャズカバーに挑戦したアルバムで、ジョン・コルトレーンやマッコイ・タイナー、ロイ・ハーグローヴなどメンバーそれぞれが自らのルーツとなる楽曲をセレクトし、それをSOIL流にアレンジした珠玉の1枚だ。しかも、ジャズやレア・グルーヴの楽曲だけでなくBlack Sabbathの楽曲までスピリチュアルなジャズ・チューンに料理しているところがSOILの面目躍如といったところだろう。
今回は、そんなSOILのカバーアルバムの魅力を、大のジャズ&ヒップホップ愛好家であり、学生時代はアシッドジャズ・シーンにどっぷり浸かっていたという俳優の松尾諭と、SOIL 社長の対談という形で紐解いていく。互いの音楽遍歴や、音楽と芝居の共通点など、貴重なトピックで大いに盛り上がった。(黒田隆憲)
「ルパン三世のテーマ」を聴いて初めて“ジャズ”を意識した(松尾)
ーーお二人の交流はどのように始まったのですか?
松尾諭(以下、松尾):確か一昨年の11月頃、夜の9時か10時くらいに映画監督の入江(悠)さんから電話がかかってきて。「今、三茶で飲んでるんですけど来ませんか?」と。それで行ったら社長とwyolicaのAzumiさん、それからゲス(の極み乙女。)のちゃんMariさんがいらして。全員初対面やったから、「なんで呼ばれたんかな?」と思ったんですが(笑)。
社長:入江さんと飲んでると、急に人を呼ぶんですよ(笑)。その時も突然「今から俳優の松尾さんが来るよ」って言われたんですよね。それでみんなびっくりして。
松尾:僕もびっくりでしたよ(笑)。
ーーどんな話をしたんですか?
松尾:結構いいペースで飲んでいたので内容をあんまり覚えてないんですよ。「なんか楽しかったな」くらいしか記憶になくて。
社長:はははは。実はそれが最初で、今回会うのは2回目なんです。松尾さんは覚えていらっしゃらないみたいですが(笑)、1回目の時にいろんな話をして、音楽もすごく詳しい方だなと思ったんですよね。
松尾:まあ、そんじょそこらの俳優よりは知っているつもりです(笑)。入江さんと仕事をしたのも、『SR サイタマノラッパー』のドラマ版でラッパーの役をやらせてもらったんですけど、この役がどうしても欲しくて監督にラップしている映像を送ったんですよ。ラップなんてもちろん普段しないんですけど、その時は確かLAMP EYEの曲でした。
社長:LAMP EYE!(笑)
松尾:僕って結構早口やし、声も高めなので、RINO LATINA IIのラップが合ってるかなと思ったんです。
ーーそもそも松尾さんは、どんなきっかけで音楽が好きになったんですか?
松尾:最初にハマったのはジャズなんですけど、それって小学校高学年の頃に『ルパン三世』を観ていたからだと思うんですよね。大野雄二バンドがやっている、1979年バージョンの「ルパン三世のテーマ」。あれを聴いたときに初めて“ジャズ”を意識したというか、オープニング映像も込みで「カッコいい」と思ったんですよね。カセットテープに録音して、繰り返し聴いていました。
ーールパン三世が原体験だったと。
松尾:本格的にハマったのは高校生になってからです。当時、久保田利伸をよく聴いていたんですけど、友人から「久保田利伸がラジオをやってる」と聞いて。それで聴いてみようと思ってラジオのチューニングを合わせたら、選曲がジャズばっかりだったんですよね。「へえ、久保田利伸ってジャズが好きなんやな」と思って毎週聴いてたんですけど、実はそれ久保田利伸のラジオ番組じゃなかったんですよ。
社長:え?(笑)
松尾:ラジオのDJの喋り方って妙に英語っぽいから全然気づかなかったんですけど、よくよく調べてみたら小曽根真の『OZMIC NOTES』だった。
一同:はははははは。
松尾:スタンダードなジャズを毎週紹介していて、それを聴いているうちにいつの間にかジャズが好きになっていました(笑)。レンタルCD屋へ行ってはBLUE NOTEのCDを片っ端から借りて、ライナーノーツを読んで「このミュージシャンは、このアルバムにも参加しているのか」とか、「マイルス・デイヴィスは絶対に押さえておかなければいけないアーティストなんだな」とか、だんだん覚えていって。ジャズ喫茶にも足を運んでいましたね。で、高3くらいでクラブジャズ・ブームが来るんですよ。
社長:おお、なるほど!
松尾:予備校時代、友人に連れられて神戸のライブハウスへ行ったら、クラブジャズシーン周りの人たちがそこで阪神・淡路大震災の復興イベントをやっていたんです。U.F.O.(United Future Organization)やMONDO GROSSOなども出演していて、めちゃくちゃカッコよかった。その頃からジャズだけでなく、ブラジル音楽なども聴くようになっていくんです。大学時代は毎日のように心斎橋のレコ屋巡りをしていたし、土曜の夜は朝までクラブで遊び、そのままラグビー部の試合に出るっていう生活を送っていました。
U.F.O.はアイドルだった(社長)
社長:ハードな週末だったんですね(笑)。僕も入口は、小学校の時。親が学校の先生で、母親にピアノを習っていたのが音楽の原体験です。次に小学校のブラスバンドに入ってトロンボーンを吹き始めたのが管楽器との出会い、そこから先は、中学に入ったらいわゆるバンドブームみたいなのがあって、みんながやっていたというのもありギターをかじり(笑)、「もう、ギターは上手いヤツがいるから」という理由でベースをやらされ……。
松尾:あははは!
社長:そうこうしているうちに僕もアシッドジャズブームに出会うんですが、それが中学校3年生の頃ですね。そこからはクラブジャズ一辺倒。クラブジャズを作りたいというか、その時はDJになりたくて。U.F.O.は、そういう意味ではアイドルでしたね。
松尾:僕もそうでした。オシャレだったじゃないですか。僕、彼らのビデオを持っていてーー。
社長:『THE SCENE』ですね! あれはオシャレでしたね。ロンドンの廃屋みたいなところで撮影していて。
松尾:そうそう! 心斎橋に、矢部(直)さんも御用達だった「Mamborama」というショップがあったんですよ。当時は古着のスーツとか置いてあったんですけど、学生にとっては値段も高いし、服を買いに行くとかまだドキドキする年代じゃないですか(笑)。お店の人もめちゃくちゃオシャレで、カッコいい音楽がかかっていて。もう、そういうカルチャー全てが憧れの的だったんですよね。
社長:ちなみに、僕が高校生の頃に生まれて初めて買ったスーツが、U.F.O.の衣装などを担当していた今西祐次さんがやっている「Planet Plan」だったんですよ。
松尾:え、高校生の時に「Planet Plan」で服を買ってたんですか。マセてますねえ(笑)。
社長:そのくらい、影響力があったんですよ(笑)。
松尾:確かにね。そういえばアシッドジャズとか出てきた頃って、いろんなジャンルがありましたよね。ドラムンベースとか、ヒップホップもアブストラクト系のDJ KRUSHやDJ CAM……アブストラクト・ヒップホップ四天王とか言われてましたよね。
社長:はい、はい(笑)。<Mo' Wax>とか。
松尾:あと<Ninja Tune>ね! その辺は夢中になって聴いていました。DJもやっていたんですよ。レコードを買うことが増えて、ジャズのレコードがどんどん増えていく一方だったんですけど、友人から「そんなに持ってるなら、今度DJしようや」と言われて。心斎橋のクラブを借りてパーティとか主催していました。その友人がハウスとがガンガンかけた後に、僕が出て行ってマイルス・デイヴィスの「Autumn Leaves」をかけて、一気にシラけさせたりしていましたね。
社長:ははははは。
松尾:もっと、踊れるレコードを探さなあかんと思って、そこからレア・グルーヴとか掘るようになったんですけど、当時はめちゃめちゃ高くてそんな気軽には買えなかったんですよね。もう、迷いに迷って購入したのが何故かファラオ・サンダースの『Karma』という(笑)。
社長:名盤ですけどね(笑)。
松尾:その後、いろいろ人との縁もあってヒップホップへ傾いていって。それが1995年とかそのくらいだった気がします。
ーーSOILの音楽を知るようになったきっかけは?
松尾:確か2005年頃じゃなかったかな。ちょうどPE'Zとかが出てきた流れで聴いた気がする。当時、SOILもアナログとか切っていましたよね。それをレコ屋で試聴したのがきっかけのような気がします。「これ、好きやと思うで」みたいな感じで、知り合いの店員に勧められたんじゃなかったかな。その頃はまだネットも今ほど発達していなかったしサブスクもなかったし、雑誌も読んでなかったから情報はレコ屋しかなかったんですよね。CISCOの新宿店があったじゃないですか。あそこのストッカーとかに入れてもらって試聴しまくってたんです。
社長:へえ!
松尾:当時はものすごく貧乏でレコードを買うお金もないし、取り置きしてもらっているレコードが溜まっていくばっかりという(笑)。でも、そこでいろんなバンドの名前を覚えたし、そんな中にSOILもいたんですよね。それで本当にびっくりした。
社長:その頃から、俳優としてのお仕事も忙しくなってきた感じですか?
松尾:いや、まだ全然。TSUTAYAでバイトしながら俳優の仕事をしていました。2005年だと、バイトの傍ら『亡国のイージス』をやっていた頃ですね。入ってくるギャラもその頃は大したことなくて、掛け持ちしていたバイト代の方が全然多かったし、撮影のためにバイトを休まなきゃならなくて借金が増えるという悪循環。SOILがデビューしたのもその頃ですよね?
社長:そうです。2004年に初音源となるアルバム『PIMPIN'』をリリースして、それがいい具合に広がっていった。当時はライブハウスでも、クラブのDJイベントでもライブをやっていましたね。クラブだと、バンドがライブをやるための機材が充分に揃ってるのはYELLOWくらいしかなくて。とにかく、そこにある機材をかき集めてやるという(笑)。マイクも1本しか立てられない状況でライブをやったこともありましたね。不自由だったけど、そこで工夫するのが楽しくもありました。
松尾:それはそれで観る方も楽しそう。ただ、僕個人はだんだん俳優の仕事が忙しくなってきて、TSUTAYAのバイトも辞めなきゃならなくなる。人生で一番「音楽を聴いていない時代」を過ごすんですよね。その時代と、SOILがバーンと飛躍していく時期が被っていたのは残念だったなと思う。当時のライブ観たかったなあ(笑)。