小説『モンパルナス1934~キャンティ前史~』エピソード1   村井邦彦・吉田俊宏 作

『モンパルナス1934』エピソード1

エピソード1
カンヌ ♯2

エディ・バークレイ(左)と村井邦彦(右)

 終演後、僕らはバークレイ・レコードの夕食会に招かれた。カンヌを見下ろす小高い山にあるムージャンという町にできた新しいレストラン、ムーラン・ド・ムージャンが会場だった。バークレイ・レコードの幹部やアメリカのベル・レコードの社長のほか、シルヴィ・バルタンのようなスター歌手もいた。総勢30名ほどのパーティーだったが、僕が紹介するやいなや社交の中心になったのはフランス語、英語、イタリア語を流暢に話す日本から来た神秘的な美人、タンタンだった。
 にこやかに話していたタンタンの表情が変わったのは、きれいなイタリア語を話す若い女性が挨拶に来たときだった。
「マルタといいます」と彼女は名乗り、タンタンは「失礼ですけど、お年はいくつかしら」と尋ねた。そのくらいのイタリア語なら、僕にも何とか分かる。
「マルタさんはね、お母さんがイタリア人で、お父さんはフランス人なんですって」。タンタンは僕が頼んでもいないのに通訳を始めた。「彼女が子どもの頃、お父さんはローマから出ていってしまって、お母さんに育てられたそうよ」
 どこかで聞いたような話だと僕は思った。
「ねえ、マルタさん、お父さんの消息は分かっているの」とタンタンが尋ねた。
「パリで再婚して、ちゃんと家庭があるらしいんですけど、それ以上のことは知らないわ」
「お父さんに会いたくないの?」
「私は8歳だったからパパのことはあまり思えていないし、今のパパを実の父親と思っているから」
「そう。マルタさんは今、幸せなのね?」
「もちろんよ」
 タンタンは優しい言葉をかけたが、今にも泣き出しそうな哀しい目をしていた。僕にはその理由が分かった。横にいて僕の脇腹をひじで小突き続けていた美奈子さんも当然、分かっていたはずだ。
 タンタンは暴力を振るうイタリア人の夫から逃げ出してきた。ローマに残してきた一人娘の名前はマルタだった。飯倉片町でキャンティを始める前に、川添夫妻は西新橋でイタリアン・レストランを開いていたのだが、その店の名も『マルタ』だった。1歳半の赤ん坊だったとはいえ、置き去りにしてしまった実の娘を思い出さない日は1日としてなかったに違いない。夫を亡くして傷心のタンタンが今回カンヌまでついてきたのは、少しでもローマに近づきたかったからかもしれない。

川添浩史(右)と梶子(左)

 翌日、タンタンの希望でラ・メール・ブッソンを訪れた。
「シローと一緒によく来たのよ」
 栗色の目の穏やかな奥さんが料理の腕を振るい、背の高い亭主と若い息子たちが給仕する小さなレストランだ。タンタンが選んでくれたのは魚のスープ、タンポポのサラダ、ルージェという小ぶりの赤い魚を焼いた料理だった。ワインはマルセイユ産のカシの白を注文した。
「これが典型的な南フランスの料理よ」とタンタンが言うと「まあ、おいしい。これは東京じゃ食べられないわね」と美奈子さんが相づちを打った。
 まだ夕食には早い時間で、客は僕たちだけだった。店主夫妻も横のテーブルに腰かけ、川添さんの思い出話を始めた。
「カンヌ映画祭でシローが応援していた『砂の女』は芸術的な映画だったねえ。日本にはあんな砂漠があるのかね。ちょっとカフカを思い出すシチュエーションだったなあ」と亭主がなかなか博識なところを見せて言った。
「原作者は安部公房さんという小説家で、川端さんに続いてノーベル文学賞を獲ってもおかしくないって誰かが言ってたわ。キャンティにもよくいらっしゃるのよ」とタンタンが説明した。
「安部さんには確かにカフカの影響があるよ。いきなり砂漠の蟻地獄の底にある家に閉じ込められて、未亡人と一緒に暮らさなきゃいけないなんて、普通は考えられない不条理な状況だよね。カフカの小説でいえば、起きたら虫になっていたっていうのと同じようなシチュエーションだな」と僕が口をはさんだ。フランス語でうまく説明できないところは英語で補い、それでも通じないニュアンスはタンタンが見事に通訳してくれた。
「これなら最初から日本語で話せばいいんだ」と僕が言ったら、みんなが笑った。
「私は蟻地獄の底に住んでいる砂の女なんてバカバカしいと思ったのよ、当時は。だって何の自由もないのよ。でもねえ、最近は分かる気がするのよ、砂の女の気持ちが。彼女は亭主も娘も亡くしてしまって、最後のとりでになったあの家を一人で守っているのよ。もしかしたら、砂の女は私かもしれないわね」
 冗談とも本気ともつかない調子でタンタンは言った。煙草に火を点けてはすぐに消し、また点けてすぐに消した。
「えっ、何、何? 梶子さんが砂の女なら、蟻地獄の家はキャンティってことになるじゃない?」と美奈子さんが茶々を入れた。
 僕はこの場合、どんなリアクションが最適なのか分からず、グラスに残っていたカシの白ワインを飲みほした。
 ラ・メール・ブッソンの抜群の料理人でもある奥さんが「私も『砂の女』は深みのある映画だと思ったわ。ちょっと難しかったけどね。でも『シェルブールの雨傘』みたいな甘ったるい映画じゃなくて、シローの映画がグランプリを取るべきだったのよ」ときっぱりと言った。博識の亭主がうなずいて拍手をした。
「あのね、映画の質はともかくとして、僕は『シェルブールの雨傘』の音楽は好きだな。少なくとも音楽は最高だと思った。あれ以来、ミシェル・ルグランに惚れこんじゃってね」と僕が言うと、夫妻はそれにも賛同してくれた。「おい、ルグランのレコードをかけてくれよ」と亭主が息子たちに告げ、兄が探しに行ったのだが、なかなか戻ってこない。
「じゃあ、これをかけてみて。B面から聴いてほしいんだ」と僕は日本から持参した1枚のドーナツ盤を弟に手渡した。チャンスがあったらいつでも売り込めるように最新作のレコードを鞄に入れて持ち歩いていたのだ。アルファが送り出した新人、赤い鳥のシングルだった。
〽今 私の願いごとが 叶うならば 翼がほしい
「いい曲ね。作詞はガミさん? 作曲は村井君でしょ。品が良くて、あなたらしいわ」と美奈子さんが言うと、博識の亭主が「子どもの頃に歌った讃美歌を思い出すな」と付け加えた。
「ああ、私も翼がほしいわ。本当に飛んでいきたい。ずーっと、ずーっと遠くまで。ねえ、翼があればどこまで飛べるかしらね」
 タンタンはそう言って横を向いたが、僕は彼女の涙を見逃さなかった。

 その夜、僕は一人でホテル・マルティネスのバーに出かけた。ここはMIDEMに参加している欧米のレコード会社や音楽出版社の連中、特に若手が毎夜集まることで知られていた。その夜は200人を超える若者がいたかもしれない。バーに入りきれない人たちがロビーにまであふれかえり、若い男女の話し声がワーンと大きな雑音になって聞こえる。朝の3時すぎまで自己紹介と友達の紹介を繰り返し、帰るころには友達の友達の、そのまた友達が数珠つなぎになって、みんなが知り合いになってしまうのだ。
 バーの片隅で、僕はマルタと再会した。
「やあ、マドモアゼル。昨晩は悪かったね。タンタンが急に黙ってしまってさ」
 マルタはイタリア語だけでなく、実は英語もフランス語も自在に操れることが分かった。僕らは英語で話した。
「ううん。事情は後で聞いたわ。ねえ、マダムに伝えて。本当は私、パパに会いたいって。ずっと会いたくて、パパのことを考えない日はなかったって。うそをついてごめんなさい。私、ずっと強がって生きてきたのよ。クニ、きっと伝えてね」
 彼女は古代ローマのコロッセオの壁みたいな茶色の瞳に涙を浮かべていた。

 僕は夜のクロワゼット大通りを大股でホテルに急いだ。風が強くなってきた。マジェスティックの白亜の建物の5階に1つだけ明かりが点いている。僕の隣の部屋だ。
 部屋に戻って窓を開けると、隣の広いバルコニーでタンタンが煙草をふかしていた。
「タンタン、まだ起きていたの?」
「あなた、私たちを置いてどこかに行っちゃうんだもの」
「MIDEMの若い連中が集まるバーに行ってくるって言ったじゃない」
 風がますます強くなった。南仏名物のミストラルというやつだろうか。
「あら、そうだったかしら」
 彼女はもう一本の煙草に火を点けようとするのだが、ミストラルにあおられてなかなかうまくいかない。ようやく点いた煙草をふかして、か細い声で歌った。
「悲しみのない 自由な空へ 翼はためかせ……」
 どうやら新曲を覚えてくれたようだ。
「ねえ、私、ここから飛べるかしら」
 タンタンはさっと煙草をもみ消して、いきなり手すりの上に身を乗り出した。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
 僕が手を伸ばしても隣のバルコニーまで届くはずもなかった。
「さ、さっきマルタに会ったよ。タンタンに言づてがあるんだ」
「マルタ? どこで?」
 タンタンは急に真顔になって言った。
「さっき行ってきたホテル・マルティネスのバーだよ。きのうの夜に会ったよね、エディの部下のイタリア系の女の子」
 僕は彼女を落ち着かせようとして、ゆっくり話した。自分の声が震えているのが分かった。
「言づてって、何?」
「本当はパパに会いたいって。毎日、パパのことを思わない日はないのに、ずっと強がって生きてきたって」と僕は一気に早口で言った。
 タンタンは僕を見たまま笑い始めた。
「あなた、そんなことを言うために戻ってきたの。きれいな娘だったじゃない。服のセンスも悪くない。一緒にカジノにでも行ってくればよかったのに」
 ミストラルが彼女の黒い髪とパジャマの上から羽織った毛皮のコートをはためかせている。
「あー、寒い。カンヌってこんなに寒かったかしらね」。風がひゅうひゅう鳴っていた。
「タンタン、もう寝た方がいい」
「あなたこそ、早く寝なさい」。彼女は部屋に戻ろうとして、もう一度こっちを見て言った。
「パリには車で行きましょう」
「えっ。航空券を3人分確保してあるのに?」
 やれやれ。またタンタンの気まぐれが始まった。急に車でどこかに行きたいと言い始めるのはこれが初めてではない。逆らっても僕に勝ち目などないことは経験上よく分かっていた。
「はいはい、分かりました。じゃあレンタカーを確保しておきます」
「あら、やけに素直じゃない」。彼女はまた煙草に火を点けようとするのだが、ミストラルがそれを許さない。
「タンタンは本当に車が好きなんだね」
「男の人みたいに車そのものに興味があるわけじゃないのよ」
 彼女は急に饒舌になった。
「あちこち旅するのが好きなの。シローと初めて会ったとき、吾妻徳穂さんたちと一緒に車でヨーロッパを回ったんだけどね、楽しかったな。アヅマカブキの公演が終わるでしょう。ホテルに泊まって、翌朝、目が覚めるとまたすぐに次の町に向けて出発するわけ。同じ場所にとどまっていないのよ。目の前の景色が毎日変わっていくのが、だんだん当たり前になってくるの。不思議な感覚だったわ。でも、私はあの旅で生まれ変わった気がしたのよ」
 イタリア人の夫の暴力から逃げ出したタンタンはローマの日本大使館にかくまわれていた。そこでプロデューサーとしてアヅマカブキの欧州公演に帯同していた川添浩史さんと出会ったのだった。人生のどん底にいたタンタンは、母国から来て別世界を見せてくれた紳士に自分の未来を預けたのだろう。
「カンヌからパリまで900キロ以上あるから、時速100キロで飛ばしても9時間はかかるよ。運転手は僕しかいないから、これは体力勝負だなあ」
「あなた、若いんだから大丈夫でしょ。しっかりしなさいよ」
「はい。じゃあ、おやすみ」

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