杏沙子が届けた、最高のディナーを味わうような音楽体験 『耳で味わうレストラン』完全レポート
12月19日。クリスマスまであと少しという土曜の夜に、杏沙子が2度目のオンラインワンマンライブを行なった。題して『耳で味わうレストラン』。都内の某レストランで「料理を楽しむように音楽を楽しむ」スペシャルなオンラインライブだ。
有観客のライブを開催するのが困難であるなか、多くのアーティストたちが無観客での配信ライブを行うようになった2020年。だがそれを定期的に続けていくには、ある意味で有観客のライブ以上に創意工夫と独自性が必要だったりする。有観客ライブであれば、たとえ前回と同じ構成であろうとも観客が変われば演奏もグルーブも変わるので、観る者はそれを楽しむことができる。無観客の配信ライブとなるとそうはいかない。よって、やる側はその都度趣向を変える必要性が、多かれ少なかれある。それをすることなく毎回の配信ライブで多くの視聴者を惹きつけることができるミュージシャンは稀だろう。
杏沙子はといえば、もともと有観客であっても、必ずその回だけの趣向を凝らしたライブを行ってきたシンガーだ。元来、そうやってその日だけのテーマを設け、信頼のおけるスタッフたちとアイデアを出し合いながらひとつのライブを作りあげていくことが好きなタイプ。それをしながらモチベーションをあげ、当日に向けて気持ちを高めていくタイプなのだと思う。杏沙子は「歌うことが大好きな」シンガーであり、2ndアルバム『ノーメイク、ストーリー』で「パーソナルな歌詞を書くことの充実感」も覚えたソングライターでもあるが、もうひとつ、趣向を凝らしたステージ作りを活き活きと行う、言うなれば演出家的な側面も持ち合わせた表現者。今回のオンラインライブで、改めてそのことを感じた。
今回のオンラインライブが杏沙子のTwitterで発表されたのは11月11日。そこには開催日時と共にこう書かれてあった。「オーダー企画 味わいたいコースはどっち? 引用リツイートで「恋」or「夜」、どちらか書き込んでオーダーしてね! ほろ甘スパイシーな「恋」のコース、ほろ苦クリーミーな「夜」のコース」。このようにふたつのコースを提示し、どちらを楽しみたいか、みんなの「オーダー」をとるところからスタートした。やがてその集計から、ほろ苦クリーミーな「夜」のコースに決まったことを報告すると、続いて12月3日には「夜カバーソング」オーダー企画として5曲の夜向きポップソングを挙げ、「1番オーダーの多かった曲を、耳で味わうレストランでお届けいたします」とツイート。9月27日に行なわれた『杏沙子 ONLINEワンマン フェルマータ、ストーリー ~21分の12~』はアルバム2作のなかからライブで聴きたい曲を投票してもらって上位12曲を歌うというものだったが、今回は述べた通り、まず「コース」を選んでもらい、そしてそのなかの一品であるカバーも選んでもらうという2段階によってファンのみんなのワクワク感を高めていったのだ。これ即ち、同じ場所に集まることはできなくとも、みんなで一緒にひとつのライブを作っていきたいという杏沙子の強い思いの表れである。
「耳で味わうレストラン」。改めて説明すると、これは「料理を味わうように音楽を味わう」ディナー設定のライブ。スタジオやライブハウスではなく、実際、都内の某レストランがその場所となった。杏沙子はレストランのオーナー。そしてシェフが3人。山本隆二(Key)、鈴木正人 (Cb/Eb)、森本隆寛(Gt)だ。店内は明るすぎず暗すぎずといった照明の塩梅。キャンドルも焚かれ、ディナーに相応しい落ち着いた雰囲気が醸し出されている。そこに招かれた客は自分ひとり(という設定)で、つまり自分だけに杏沙子とシェフたちが心のこもった“歌という料理”をふるまってくれる、そんな特別さを感じられるあり方だ。
シェフたちは音楽の調理に機械を使わない。コンピュータ類を用いず、生楽器で一品一品、手作りする。ドラムがないので、ビートすらない。このレストランがオーガニックな食材と調理法に拘った店であることがわかる。そして、とても親密な感覚が味わえる。なんたって自分が座ったテーブルのすぐ目の前でシェフたちが料理を作り、オーナーがコースの拘りポイントを説明しつつ温かくもてなしてくれるのだから。
19時より少し前。自分はそのレストランをひとり訪れる気持ちで、PCにURLを入力。着席したテーブルにはお皿とカトラリー、それからキャンドルも。そのキャンドルに火がともると、「耳で味わうレストランへようこそ。私はこのレストランのオーナー、杏沙子と申します。本日は“ほろ苦クリーミーな「夜」のコース”をご予約いただきまして、誠にありがとうございます。今夜はあなたを、多彩で、濃厚で、そしてちょっと大人な夜の世界にお連れいたします。さまざまな夜に漂い、包まれ、たっぷり味わっていただくコース。最後の一品までどうぞお楽しみください」と、オーナー自らが挨拶。とても丁寧で心のこもったお店であることが伝わり、この時点でもう嬉しくなった。
アペリティフ、つまり本格的な食事の前の食前酒は、「真っ赤なコート」だ。2017年の12月に可愛らしいアニメーションMVが公開されて以来、ファンの間で人気の高い杏沙子流クリスマスソング。スレイベル(そりの鈴)をシャンシャンと鳴らしながら歌う杏沙子の表情は柔らかで、9月の『杏沙子 ONLINEワンマン フェルマータ、ストーリー ~21分の12~』のときよりもリラックスしてこのライブに臨んでいるのがわかる。かなりの高音部分を目を閉じて歌い、間奏では幸せそうな表情を見せもする。曲の終わりに森本隆寛が「ジングルベル」のフレーズをさらりと弾き、クリスマス気分がふんわりと高まった。
アミューズブーシュ(始まりの小皿料理)は、「マイダーリン」。元曲は青春時代特有の恋心とそのドキドキ感をポップに歌ったものだったが、ドラムレスで洒落たアレンジが施されたこの夜の「マイダーリン」はもう少しオトナ味。今の杏沙子が歌ってしっくりくるアレンジで、こうして更新されながら長く歌い続けられる曲になるのだろうと思った。アミューズブーシュとはフランス語で「口を楽しませるもの」の意味だが、確かにここからの料理に期待が高まる軽やかな昂揚感があった。
ここでオーナー・杏沙子から、この夜のテーマについての説明がなされた。「“耳で味わうレストラン“というテーマ/タイトルにしたのには理由があって。ファンの方は知ってる方も多いと思うんですけど、私は食べることが大好きなんですね(笑)。で、毎日美味しいものを食べてるなかで、音楽と料理って共通点が多いなと思ったんです。例えば料理を創るとき、ひとつまみの塩だったり煮込み方や焼き方が違うだけで、味が変わる。音楽は楽器を変えたり弾き方を変えるだけで全然違うものになったりする。そうやって少しの違いで大きく変わってしまうところも似ているし、あと、料理も音楽も好きな楽しみ方、好きな感じ方をしていい、そんな自由なところも似てるなと思ってきたんです。だってね、料理も音楽も、言葉で表すときに“しっとりめ”とか“あたたかく”とか同じ表現の仕方をするときもあったりするくらいだし。今回は音楽と料理を掛け合わせた何かをしたいと思って実現したライブです。“ほろ苦クリーミーな「夜」のコース”ということで、夜を歌ったうたをたっぷりご用意しています。ここにいるシェフのみんなと一緒に、今そこに座っているあなたに向けて、一品ずつ丁寧にお届けしていこうと思います」。
アントレ(前菜)は「クレンジング」だった。歌と鍵盤で同時に入り、鈴木正人のウッドベースが夜のムードを高め、森本の爪弾くギターはボサノヴァのタッチ。元曲はひんやりしたエレクトロニックの風合いだったが、このボサノヴァっぽいアレンジが楽曲そのものを生まれ変わらせ、新鮮な印象をもたらした。キャンドルの炎が杏沙子に重なって映り、グッと大人の表情に見える。もともとこの曲、杏沙子自身が2ndアルバムのなかでも特に好きだと言っていたものだが、このアレンジでさらに彼女のなかの好き度も高まったんじゃないだろうか。
ポタージュ(スープ)は、「好きって」。インディーズ時代にライブで歌っていた切なさいっぱいのバラードで、当時、この春の曲がたまらなく好きだと言っていたファンは多かったものだが、こうして冬に聴くとなると切なさもひとしお。あの頃に比べて表現力もグンと高まっている故、特にサビ部分での杏沙子の今にも泣きだしそうな歌に揺さぶられた。桜がヒラヒラ舞い落ちる様を表わしたような山本隆二の鍵盤音は、ここでは舞う雪をイメージさせた。