杏沙子が届けた、最高のディナーを味わうような音楽体験 『耳で味わうレストラン』完全レポート

杏沙子『耳で味わうレストラン』完全レポ

 ポワソン、即ち魚料理にあたる5品目は「見る目ないなぁ」だ。「好きって」に続いて、切なさの押し寄せる曲。2020年、この曲によって杏沙子というシンガーソングライターを知ったという人も少なくなかっただろうし、今のところ間違いなく彼女の代表曲のひとつに挙げられる曲にもなった。このミニマルな編成で演奏されるに相応しい曲であり、この編成であるからこそ彼女の表現力も際立って感じられた。

 トゥル・ノルマン、つまりメイン料理の間の「お口直し」にあたる6品目は、カバー曲。先に記した通り、「夜カバーソング」オーダー企画として事前に5曲の夜向きポップソング(SMAP「夜空ノムコウ」、キリンジ「エイリアンズ」、大塚愛「プラネタリウム」、YOASOBI「夜に駆ける」、SEKAI NO OWARI「スターライトパレード」)を杏沙子が選んでオーダーがとられたのだが、接戦の末、YOASOBIの「夜に駆ける」が選ばれた。「この曲、森本さんも好きって言ってましたよね。私も初めて聴いたときに衝撃を受けて。聴けば聴くほど、主人公の気持ちが本当に繊細に変化していく、緻密なガラス細工みたいな曲だなと思いました」と杏沙子。森本のストロークから始まり、杏沙子のボーカルは次第に熱を帯びていく。違和感、ゼロ。オリジナルを知らずに聴いたら、元から彼女の歌だと思ってしまったかもしれない。杏沙子が歌えば杏沙子の歌になる。それだけそのボーカルに揺るぎない個性があるということだ。それはちょっとハッとさせられることでもあった。

 ヴィアンド(肉料理)にあたる7品目は、『ノーメイク、ストーリー』収録の「交点」だ。作詞・作曲・編曲を手掛けた幕須介人は「この曲を今歌えるのは杏沙子さんしかいない」と言ってこの曲を送ってきたそうだ。それを聴いたときには「私に太刀打ちできるんだろうかって不安になった」と話していたくらいの難曲だが、今回初めてライブで歌われたシネマティックなこの曲に、今の杏沙子のシンガーとしてのポテンシャルが最大限発揮されていた。幻想的とも言える鍵盤の音と、やがて重なるコントラバスの響き。60年代のフランス映画のようなロマンティックさと深みがある。ギターが入って曲テンポがあがったあたりの杏沙子の歌の力の抜き加減は絶妙だった。押しと引き、強と弱の加減が生命線とも言えるこの曲で、杏沙子はそれを自然に、そして見事にコントロールしながら歌っていた。「大事にしてたもの」を両手で包み、それが遠ざかっていくことも手と声で表現しながら。この日の10品のなかでも、これはとりわけ深い味わいがあり、余韻が残った。

 フロマージュ、即ちメイン料理のあとのチーズにあたる8品目は、雰囲気をガラッと変えて「東京一時停止ボタン」だ。ベースで始まり、ジャジーにアレンジされたこの曲に乗る杏沙子の歌は、どこかポエトリーリーディングっぽさもあり、オリジナルとはムードがまるで違う。まさしく夜の歌、それも東京という大都会の歌になっていた。ここでもまた歌の強弱のつけ方が見事で、どんどん感情が高ぶってピークに達したかと思えば、ふっと力を抜いて気持ちの途切れを表現する。序盤、「真っ赤なコート」を軽やかに歌ったりしていた杏沙子とは別人のようだ。

 「早いものであと2品」というところで、杏沙子はこう話した。「私は今日のこのライブが2020年のライブ収めになるわけですが、みんなは2020年、どんな1年になりましたか?   去年の今頃、私はみんなと同じ空間で、みんなの顔を見ながらうたを歌っていました。それから丸一年、みんなの顔を見ながら歌うことができなかったです。こんな1年になるなんて、私はもちろん、みんなも思っていなかったと思います。あまりひとにも会えないし、ひとりで孤独な夜を過ごしているような一年だったなと。そんななかで、こういうふうに今だからこそできることを探して、暗闇で小さな光を探した、そんな1年でした。きっとあなたや多くのひとが、悔しさだったり、もどかしさだったりを感じた1年だったんじゃないかなと思います。でも夜があれば朝がくるように、必ず夜明けはやってくるから、2021年、私に、あなたに、多くのひとに、それぞれの夜明けがやってくることを祈って、少し早いですが私からみんなへお年賀として次の曲を歌おうと思います。2021年、あなたにたくさんいいことがありますように」。

 そうしてラ・プティット・シュルプリーズ(驚きの料理)として出されたのは、この日2曲目のカバー、松任谷由実の「A HAPPY NEW YEAR」だった。まさにシュルプリーズ(サプライズ)。自分にとっても毎年1年の終わりに必ず聴きたくなる曲なのだが、それを杏沙子の歌で聴けるとは思ってもみなかった。こんな今年ももうすぐ終わる。そして2021年はたぶん、きっと、2020年よりもいい年になるんじゃないか。ニュースを見て現実を目の当たりにするとなかなかそう思うのは難しいけれど、でも、杏沙子の優しい声によるこの歌に耳を傾けていたら確かにそんな気がしたのだった。

 シェフ(メンバー)の3人が紹介され、そして彼らが順にその場を去ると、「次がコース最後の一品です。デザートですね。三日月のドルチェ。私ひとりでお届けしようと思います」、そう言ってピアノの前へと動く杏沙子。「こうしてピアノと私、ふたりで届けるのは、インディーズのときの人生初ワンマン以来なので4年ぶりですね。みんなが今日このあと、ステキな夢が見れるように、心を込めて歌おうと思います」。デザートは、「おやすみ」だ。4年ぶりの弾き語りということの緊張感なのか、ピアノを一音鳴らしてからまた少し時間をおき、気持ちを整えて歌い始める。〈声だけで繋がる夜は 私を強がりにする〉。ピアノを弾いて歌うその声と、確かに自分は繋がっているという感覚があった。三日月の夜、杏沙子の歌が、画面越しに繋がっているひとりひとりの心を確かに満たしていた……はずだ。彼女が言うように、今年ひとりでいくつもの孤独な夜を過ごしたひとも、このときひとりじゃない気がしたはず。そんなふうに思えた歌だった。

 全10品の“ほろ苦クリーミーな「夜」のコース”。オリジナル楽曲の素材を活かしつつ、大人の味覚に合うよう丁寧に心を込めて調理されたそれを味わいながら、こんなレストランがあるならまた行きたいと自分は思った。こうしてひとりでじっくりと最高のディナーを味わうことの、なんという贅沢。でも、今度は、来年は、ひとりじゃなくてみんなで一緒に行けたらもっといいかも。笑顔でまた来年。みんなと。

■ライブ情報
杏沙子ONLINEワンマンライブ「耳で味わうレストラン」アーカイブライブ映像 配信中
配信期間は、12月27日(日)23:59まで
視聴チケットも12月27日(日)21:00まで発売中
詳細はこちら

オフィシャルサイト

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