ceroとフィッシュマンズの現代にも繋がる“折衷性”とは? 『闘魂』での共演を機に考察
フィッシュマンズの主催企画『闘魂 2019』が来年2月19日にZepp Tokyoで開催されることが決定し、ゲストとしてceroの出演が発表された。『闘魂』はフィッシュマンズが90年代後半に日比谷野音を舞台に数回開催したイベントで、約20年ぶりの復活となる。
茂木欣一(フィッシュマンズ)はceroについて「彼らの存在はアルバム『Obscure Ride』でとても気になっていたのですが、今年リリースの最新作『POLY LIFE MULTI SOUL』で提示された新しい世界に、強く心を揺さぶられました。彼らと対バンできたらどんなに刺激的だろう… オファーを受けてもらえたこと、本当に心から感謝しています」(闘魂2019
闘スポ新聞)とコメントし、髙城晶平(cero)も「個人的に色々と感慨深いのは間違いない。このタイミングでこの2マンは何かしら因果が働いてるのだと思いたい。この日の全てを自分の中に刻み込むつもりで楽しみたいです」(同一引用)とコメントするなど、お互いが本番へ向けて高い意欲を語っている。
そもそもceroというバンドは、活動初期において多分にフィッシュマンズフォロワー的な側面を持っているバンドであった。『WORLD RECORD』に収録されていた「大停電の夜に」のゆったりとしたギターストロークと空間的な音像の組み合わせは紛れもなく「ナイトクルージング」の影響下にあるものだったし、『My Lost City』収録の「スマイル」では〈「笑いを忘れた恋人たちには 新しい明日が見えている」 そう言うんだろ?〉と、フィッシュマンズの「100ミリちょっとの」を思わせる歌詞があったりもする。
90年代にバンドブームと渋谷系の狭間にいたフィッシュマンズ、2010年代にフェスロックとシティポップの狭間にいたceroという立ち位置にもリンクを見出すことができるし、メンバーの脱退を機に、サポートメンバーの存在も非常に重要な「音楽集団」化していったことも、よく似ているように思う。
音楽性に関しては、時期によって接近がありつつも、やはりそれぞれが独創的であり、一概に「近い」とは言いにくい。もちろん、グルーヴの構築や音響面への目配せ、フロウする歌の心地よさなど、リンクする部分は多々あるのだが、両者が体現する「折衷性」そのものが近いのだと言うべきだろう。