乃木坂46が見せたアイドル×演劇の発展形ーー『嫌われ松子の一生』と『墓場、女子高生』を考察

乃木坂46、2016年秋の2舞台にみた成長

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 もっとも、亡くなってしまった誰かの「生の記憶」は常に、生きている他者によって作られる。ともすればそれは当人以外の、現在生きている人々の解釈によって、亡くなった誰かの生や死の理由をめぐるストーリーが描かれてしまうということでもある。そうした「誰かの死の所在はどこにあるのか」という問いを突きつけるのが、福原充則の作・演出で初演、再演されたのち、乃木坂46版の再々演では丸尾丸一郎(劇団鹿殺し)が演出を手がける『墓場、女子高生』である。学校の裏山にある墓場、自殺した女子高生・日野(伊藤万理華)の墓の前で遊びながら日々を送る彼女の同級生たち。端々にコメディ要素が挿入され、無為なやりとりで時間を過ごしているような登場人物たちだが、その時の積み重ねはまた、それぞれが秘めている日野への葛藤を育てていく時間、言い換えれば日野の死に対してそれぞれが自分用の解釈を重ねていく時間でもある。

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 もちろん、幽霊になった日野を含めてこの世のものではない者たちは、他者に認識されてこそ存在するとも言える。日野の側にいる妖怪もまた、生きている他者に己を認識してもらうことで自身の存在を確かなものにしようとする。けれども、同級生たちの思いによって生き返った日野が「私が死ななきゃいけなかった原因には、みんなはなれない」と告げるように、誰かの死の因果を他者が背負いきることはできない。少なくとも日野が死ぬ「本当」の理由など、他者の中に存在するわけはない。同級生や周囲の人物はそれぞれに、独自の解釈で日野の死の理由を自分に引きつけようとする。いわば、虚構の日野像を日野に対して投げているのだ。

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 しかし、それは単にネガティブなディスコミュニケーションなのではない。そもそも、彼女たちの職能は、そのパフォーマンスが受け手にさまざまな解釈をされ、無数の虚像を投影されるものとしてある。自分が死に至った(偽の)美しい理由を日野が同級生たちに語らせるとき、それは己のパフォーマンスに対して受け手が投げかける自由な解釈を、表現者としての彼女たち当人が受け止める姿に重なる。乃木坂46の上演作品として『墓場、女子高生』が選ばれた意義がもっとも集約されるのは、この場面においてである。

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 日野は同級生たちの行動によって生き返ったのち、仲間たちとわずかな時間を過ごして再び死を選ぶ。作品の中で、日野が自殺する具体的な理由は明らかにされない。明かされないゆえに、日野の死はただひとつの解釈をされることのないまま、残された彼女たちが、あるいは観ている我々が自身の思いを投影する対象であり続ける。そしてそれらすべてが、輝かしくて他愛ない青春の時と背中合わせに描かれるからこそ、生も死もその尊さが際立つ。

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 昨年の『すべての犬は天国へ行く』から、乃木坂46がこの季節の演劇公演で取り組んでいる戯曲は、アイドルを素直にアイドルとして活かすタイプの作品ではない。グループが志すのも、アイドルという枠組みとは異なる価値観の中に置かれてなお堪えうる舞台のはずだ。しかしまた、そこに「アイドルがこの作品を上演する」ことの意義も重ねて見出だせるのならば、それこそがグループへの、またアイドルというジャンルへの多大な貢献にもなるだろう。生の記憶を軸に展開された今秋の2作品はそうした可能性を見せながら、乃木坂46独特の伝統をまたひとつ積み重ねた。

■香月孝史(Twitter
ライター。『宝塚イズム』などで執筆。著書に『「アイドル」の読み方: 混乱する「語り」を問う』(青弓社ライブラリー)がある。

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