THE YELLOW MONKEYは“日本のロック”を堂々と鳴らすーーサマソニ出演に寄せる期待
THE YELLOW MONKEYの再集結後初のライブ、2016年5月11日の国立代々木競技場第一体育館での1曲目が「プライマル」であったことには、感慨を覚えた。このバンドは、2001年1月8日の東京ドーム公演後、『プライマル』を発表し活動を休止した。吉井和哉が歌った詞は、バンドからの卒業を自ら祝う内容だった。次のリリースがないまま2004年に解散を発表したから、それがラスト・シングルになった。この過去を踏まえれば、再集結最初のライブ演奏を「プライマル」から始め、バンド卒業の時点から歩み直そうとした姿勢は、よく理解できるものだった。
同曲を録音した時、バンドがプロデュースを依頼した相手がトニー・ヴィスコンティだったことも、復活後最初の演奏に選んだことと無関係ではないと想像する。ヴィスコンティは、デヴィッド・ボウイやT・レックスなどイギリスのグラム・ロックをはじめ、多くのロック・アルバムを手がけた名プロデューサーだ。
THE YELLOW MONKEYの音楽的中心である吉井和哉は、以前よりデヴィッド・ボウイからの影響を公言してきた。ボウイの代表作には、異星から来たロック・スターを主人公にしたコンセプト・アルバム『ジギー・スターダスト』(原題=The Rise and Fall of Ziggy Stardust and the Spiders from Mars。直訳=屈折する星屑の上昇と下降、そして火星から来た蜘蛛の群)があった。これに対し、THE YELLOW MONKEYのメジャー・デビュー作が『THE NIGHT SNAILS AND PLASTIC BOOGIE / 夜行性のかたつむり達とプラスチックのブギー』(1992年)と長い題を与えられていたこと、サードの『jaguar hard pain 1944〜1994』(1994年)が戦死した若者の恋人探しの時間旅行を題材にしたコンセプト・アルバムであったことなどは、ボウイからの影響だった。初期のビジュアル戦略もそうだ。
THE YELLOW MONKEYが再集結を発表したのは、今年1月8日のことである。MONKEYの名を持つバンドが申年に動いたわけだが、同日にはデヴィッド・ボウイが新作『★(ブラックスター)』をリリースしていた。2日後の10日にボウイは69歳で病死したが、遺作となった同作をプロデュースしたのも、トニー・ヴィスコンティだった。再集結後のインタビューで吉井和哉は、ボウイの死の衝撃についても語っている。結果的に再集結は因縁めいたものを感じさせるタイミングとなり、バンドになにかを引き継ぐような思いを抱かせることにもなった。
かつて、THE YELLOW MONKEYが解散に至る過程には、吉井自らが認める洋楽コンプレックスがあった。「THE YELLOW MONKEY=黄色い猿」という日本人・アジア人の蔑称であり、悪ガキも意味する言葉をバンド名に選び、そのうえで洋楽っぽいロックをやる。1980年代に活躍したYellow Magic Orchestraにもみられた、洋楽に対する屈折した意識を、吉井も抱えていた。
だから、台風に襲われた1996年の第1回フジロック・フェスティバルにTHE YELLOW MONKEYが出演した際、トリだったアメリカのレッド・ホット・チリ・ペッパーズなどとの間に感じた自分たちとの差は、彼を悩ませた。この先のTHE YELLOW MONKEYをどうすればいいのか、試行錯誤して自分たちを追いつめていった先が、活動休止、解散だった。
吉井は、THE YELLOW MONKEYとしての活動期間をふり返ったインタビューで、レディオヘッド、パルプなどブリット・ポップ全盛だった当時のイギリスのバンドについて「きっと話が合うだろうな、この人たちと」と思い、同時代意識を感じていたことを語っている(秋元美乃・森内淳編『ロックンロールが降ってきた日2』)。また、自分たちもブリット風味になろうとしたら売れたと、「(笑)」入りの冗談混じりで話していた。その発言は、コンセプチュアルでグラム色が強くマニア向けだった初期から、よりポップでキャッチーな間口の広いロックへと変貌した出世作『smile』(1995年)の時期を指すのだろう。同作のジャケットは、ブリット・ポップの先駆けだったSUEDEのジャケットを意識したようなデザインだったことも、発表時は一部で話題になった。それくらい海外バンドを意識していたために、フジロックでの経験は大きかったのだろう。