みんなディアンジェロディアンジェロ騒いでるけど、ディアンジェロって何者?

 ミュージシャンとして、あらゆる側面において「天才」と呼ぶしかないディアンジェロであるが、たとえば同じように同業者(ミュージシャン)の信奉者が多いプリンスやシャーデーなどと比較すると、彼は決して「孤高の天才アーティスト」というわけではない。エリカ・バドゥ、ローリン・ヒル、メアリー・J・ブライジ、エリック・ベネイ、マクスウェル、ザ・ルーツ、ア・トライブ・コールド・クエスト、DJプレミア、スラム・ヴィレッジ、メソッドマン、コモン、アンジー・ストーン、ラファエル・サディーク、アンソニー・ハミルトンなどなど。名前を挙げていけばきりがないが、R&B/ヒップホップ界隈には同時代の盟友的存在のミュージシャンが数多くいるし、上記したアーティストの中には共演歴のあるミュージシャンも多いし、バンドのメンバーとして登用した後に頭角を表すようになったミュージシャンも多い(その中の一人であるアンジー・ストーンとは一時期結婚していて二人の間には子供もいる)。デビュー当初から「彼の周りだけ時間が止まっているようだ」と言われるほど日常生活での動きがスロウでストーンド(当時は常にドラッグでキマっていたという)していたディアンジェロは、性格的に自らリーダーシップをとってムーブメントを牽引するようなタイプではなかったが、結果的にその作品の圧倒的な力によってムーブメントの中心人物/精神的支柱となっていった。実は今回の大復活劇の重要なポイントの一つはそこにあって、彼は同業者からその才能を深く畏怖されながらも、同時に(直接の交友関係があるなしに関わらず)その人格ごと深く愛されてきたアーティストでもある。それ故に、長い不在の期間もずっと忘れ去られることなく、事あるごと(瀕死の交通事故とか薬物中毒での入院とか度重なる逮捕とか本当にいろいろあったのだ)に心配され、待望され続けてきたのだ。

 そんなディアンジェロの「人望」の根っこにあるもの。それは、そのミュージシャンとしての圧倒的身体能力と深く幅広い知識とスタジオにおける終わりのない研究&実践に裏付けられた(つまり、彼には優れた音楽家として必要なものすべてが揃っていることになる)、ブラックミュージックの歴史の伝承者&革新者としての功績である。サードアルバムまで15年待たされた今となっては「たった5年か」とつい錯覚してしまいそうになるが、1995年に音楽シーンの救世主として颯爽と現れたディアンジェロが5年もの時間をかけて制作したセカンドアルバム『Voodoo』のレコーディング作業は今も参加したミュージシャンの間で語り草となっている。本来ならば当時まさに「稼ぎ時」だったザ・ルーツのクエストラブを筆頭とする錚々たるバンドメンバーたちを引き連れエレクトリック・レディ・スタジオに延々と籠り続けたディアンジェロは、スタジオで新しい曲に取りかかる前に、毎回ブラックミュージックの歴史を作ってきた名盤1枚と当時の音楽番組『ソウル・トレイン』の1エピソードを持ち込んで、そこに含まれるすべてのサウンド、コード、リリックを「自分たちのものにする」作業を繰り返していったという。50年代から90年代までの40年分である。そりゃ5年待たされるわけだ。

 ブラックミュージックの歴史の伝承者&革新者といえば、先ほども名前を挙げたプリンスのことをまず思い浮かべる人も多いだろう。実際にディアンジェロは10代のある時期にプリンスしか聴かない時期があったというほど(主にシングルのBサイドの曲を「研究」していたという)のプリンス信者であり、また、プリンスも1996年にアルバム『イマンシペイション』のプロモーションのために来日した際、記者から「最近のお気に入りのアーティストは?」という質問に一言「ディアンジェロ」と答えている。当たり前のように相思相愛の関係にある二人だが、ディアンジェロにあってプリンスにないもの、それはヒップホップへの深い理解とコネクションだ。ブラックミュージックの歴史におけるヒップホップの革命的影響力とその意義の大きさについては改めて言うまでもないが、プリンスはヒップホップ(及びDJプレミアらヒップホップのDJによって再発見されたジャズの文脈)を外部のものとして自分の音楽に取り込むことはあったものの、(世代的な必然もあって)そのインサイダーには成り得なかった。しかし、ディアンジェロは(同じく世代的な必然もあって)インサイダーとして、ヒップホップ以前/以降のブラックミュージックの歴史を自分の肉体=生音によって見事に繋いでみせたのだ。

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