栗原裕一郎の音楽本レビュー 第7回:『人を振り向かせるプロデュースの力 クリエイター集団アゲハスプリングスの社外秘マニュアル』
プロデューサー集団・アゲハスプリングスの新しさとは何か? その「社外秘マニュアル」を読む
アゲハスプリングスという名前をご存知だろうか。
一言でいうと、音楽プロデュースを手掛ける集団の名称であり、音楽制作会社の名前でもある。
創立は2004年。以降急速に成長し、相当に広範なプロデュース・ワークを展開するに至っている、私見になるが今もっとも勢いのある音楽制作集団である。小室哲哉や小林武史に象徴される90年代プロデューサーの時代が引き続いていたとしたら、2010年代を代表するプロデューサーはアゲハスプリングスであるということにたぶんなるだろう。
それにしては知名度が低いじゃないかと思われるだろうか。僕も実はそう思っていた。
アイドルグループであるTomato n' Pine(トマパイ)のプロデュースにその名前を見たのが、アゲハスプリングスという名前に気づいた最初だったか。
アイドルに関して曲の質に過度にこだわってみせる人のことを(ときに揶揄気味に)「楽曲派」と呼んだりするが、トマパイは、もう解散してしまったけれど、楽曲のクオリティというときに筆頭に挙げられるアイドルグループであり、唯一のアルバム『PS4U』(2012年)は『ミュージック・マガジン』でその年の「歌謡曲/Jポップ」のベスト1位に選ばれたりもした。個人的にもまったく名盤だと思う。
共同プロデューサーと作詞には、今やすっかり売れっ子になったジェーン・スーがクレジットされている。彼女もアゲハスプリングス所属のクリエイターであることをのちに知ることになる。
ちょっと調べると、アゲハスプリングスは、元JUDY AND MARYのYUKIを筆頭に、エレファントカシマシ、元気ロケッツ、FUNKY MONKEY BABYS、中島美嘉、JUJU、Base Ball Bear、9nineなどなど、音楽的な幅も含めてかなり手広くやっている集団であることがわかってきた。楽曲派的な人でその名前をさも当然のように口にしている人もいたのだが、音楽ファン一般に知られているようにはあまり見えなかった。音楽業界においてかなり重要な存在となっていたはずなのに、一般的な知名度がそれに釣り合っていたようには思われない。
といって、匿名的であることを必要以上に心掛けている風でもないのだが、言及されても「クリエイター集団」としか紹介されないので、実際どのような組織で、どのように楽曲制作を行っているのか、リスナーの立場からはどうもよくわからない……。
何となく「謎な集団」というのが、当初からしばらくアゲハスプリングスに持っていた印象だった。
“何だか分からないけどよい”というブランディング
本書は、創立10周年に当たる今年、アゲハスプリングスの創立者でCEOの玉井健二が出版した、音楽プロデュースの心得について述べたものだ。サブタイトルに「社外秘マニュアル」とあるように手の内を晒した1冊であり、「謎の集団」と気になっていた僕はむろん速攻で買って読んだ。
マニュアルというものの、ハウツーに留まらず、アゲハスプリングスを統率する玉井健二という人物が、音楽というものをどのように考えているのか、その考えはどのように培われたのかといった個人史のレベルにまで筆は及んでおり、一音楽家が自身の音楽の理念について記した書物という面も多分に持っている。そちらの性格のほうが強いくらいである。
そして、その理念と音楽制作という実作業が、ほぼ齟齬なく結び付いている。たぶんこれが、アゲハスプリングスの強みの根にあるものだ。
この手の指南書は得てして「こうすれば勝てる!」的な表層的ノウハウを云々するのに終始しがちなものだが、認識と実践に乖離がないためそうした上っ面感に辟易する心配はない。
読者によってはそれでも、プロデュースの方法について述べた部分にビジネス啓蒙書に似たドライな感触を持つかもしれないが、それは、ポピュラー音楽というものの構造と受容に関する分析が冷徹である、言い換えれば、従来音楽評論などで好まれてきた、音楽にまつわる神話性や神秘性に依存していないことの現れと見るべきものだ。
「ブランディングの重要性」という、いかにも広告代理店的な用語を立てた章もあるけれど、これも“アーティストが創作する”という行為を神聖視しすぎるあまり、音楽制作という作業全体が目指すべき設計図や全体図がクリアに描かれず、ぼんやりとしたまま進んで失敗してしまうことの危険性を説いた箇所だったりする。
「アンタッチャブルな部分を設けて、そこに触らないままプロジェクトを進めて、結果的に思ったものとは違う方向に行っているのに、何となく世に出てしまう。それで、「まあ、結果が良かったからOK」みたいなプロジェクトでは、5〜10年という長いタームで見た場合に、続かないんじゃないでしょうか。やはり最初の想定や設計図、柔らかい言い方をすればコンセプトぐらいは明快で、“それ自体に既に魅力があるかどうか?”“付加価値があるのか?”がまずは大事になります」
もちろんクリエイター集団アゲハスプリングスも明確なコンセプトの元で立ち上げられている。それはこういうものだ。
「アゲハスプリングスの初期設定は、“何だか分からないけど、あそこの会社が作るものは良いよねと言ってもらえること”、というものでした。僕自身の名前はあまり出すぎず、個々のクリエイター達と会社名に目線が行くようなブランディングをしようと、決めたわけです」
「謎の集団」と心に引っ掛け、彼らの作る楽曲を次々に漁ってしまった自分のような人間は、つまり、ブランディングにまんまと釣られた獲物そのものだったわけだ!