栗原裕一郎緊急寄稿 過去のアイドル襲撃例から考えるAKB48襲撃事件

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本田靖春『「戦後」 美空ひばりとその時代』(講談社)

 5月25日、岩手県滝沢市で行われていたAKB48の握手会で、若い男が隠し持っていたノコギリで切りつけ、メンバー二人(川栄李奈、入山杏奈)と、彼女たちを護ろうとしたスタッフ一人が手や頭などを負傷する事件が起こった。

 その場で捕り押さえられた犯人は、梅田悟という24歳の無職の男で、現在のところ「人の集まるところで人を殺そうと思ってやった。誰でもよかった」「AKBに特別な思い入れはない」「AKBなら誰でもよかった。切りつけたメンバーの名前は知らなかった」などと供述している。

 芸能人が何者かに襲われる事件というのは、付き物といってよいほど過去に何度も起こっており、ツイッターなどでもその日のうちに事例が列挙されていたし、新聞も簡単な一覧を載せていた。どこのネジがどう外れていたかはさておき、ともあれいかれた奴がアイドルを襲ったという現象だけを取り上げれてみれば、今回の事件もまたありふれた一件にすぎない。

 しかし、論客としてAKBファンを代表する一人である漫画家の小林よしのりがブログに「今回の凶行は、AKBの根幹にして、最大の弱点を突かれた事件である」と書き付けたことに象徴されるように、ありふれている一方で、現況のアイドル・ブームと、それを支えるビジネス・モデルを揺るがしかねない影響が危惧されるという、過去には例のない事態に広がってもいる。実際、警視庁からAKBの運営会社AKSに、警備増強と、握手会やハイタッチなど“接触”を目的としたイベントの当面の中止が要請され、各地で予定されていたイベントが取り止めになったのはもちろん、拠点であるAKB劇場も5月31日まで営業を停止するという発表がなされた(以降の予定は未定)。avexなど他の大手にもアイドルの接触系イベントを中止すると発表するところが出てきている。(参考:小林よしのりオフィシャルwebサイト「AKB48握手会で凶行」

 AKBに留まらず、アイドルの現システムを支える、小林よしのりのいう「根幹」である“接触”が問題の焦点になっている以上、いわゆる「AKB商法」が議論の俎上にあげられているのは、まあ、自然な流れというべきだろう。宇野常寛のように、NHKのごく穏当な報道(参考:NHK NEWS WEB「AKB握手会 メンバーら3人切りつけられけが 岩手」)に対してまで「悪質な印象操作だ」などと過剰な反応(参考:Twitter) を示している者もいるが、AKB商法とそれに付随する問題に触れないほうがむしろ不自然というものだ。

 供述の真偽をはじめとして、事件の背景が明らかになったとは言い難い現時点で、犯行とAKB商法を短絡するのも、無関係だと主張するのも、どちらも拙速であり、材料がもうちょっと出揃うのを待つ必要がある。

 同様に、過去の事件と今回の事件を、同じ性質と見なすのも、まったく違うと考えるのも、どちらも正確さを欠くだろう。

 ここでは、代表的な芸能人襲撃事件とその背景、犯人の素性、襲われた芸能人のその後などを整理して、過去の事件と今回の事件の類似点と相違点を比較検討するための材料の一つとしたい。

美空ひばり塩酸事件

 1957年1月13日、浅草国際劇場での正月公演「花吹雪おしどり絵巻」に出演していた美空ひばり(当時19歳)が舞台裏から花道に出ようとしたところ、待ち構えていた、同じく19歳の少女に塩酸をかけられた。ひばりは顔や胸に火傷を負い、周囲にいた役者にも被害が及んだ。少女は逃げようとしたがその場で捕り押さえられた。

 少女は山形県米沢市の出身で、中学卒業後、紡績工場に勤めながら定時制高校に通っていたが中退した。事件を起こす前年の3月にお手伝いの口がかかって上京、板橋区の会社役員宅に住み込みで働いていた。

 美空ひばりは54年に紅白出場も果たしておりすでに大スターだった。少女は中学から美空ひばりの大ファンで、部屋にはひばりの写真が2枚貼られていた。住み込み先からひばりの自宅へ10回ほど電話をかけたが取り次がれることはなかった。ひばり見たさに仕事をさぼり(「死にたい」と書き置きを残して住み込み先を出た、と報じた記事もある)、12日の昼に「花吹雪おしどり絵巻」を観劇した。初めて生で見るひばりだった。その夜、少女は上野の旅館に泊まったのだが、帰りに薬局で塩酸を買い求めており、メモ帳に、

「あの美しい顔にくらしいほど。塩酸をかけて、醜い顔にしてやりたい」

と走り書きしていた(塩酸を買ったのは13日とする報道もある)。

 翌日、浅草でひばり主演の映画を観たあと、少女は国際劇場へ行き犯行に及んだ。

 塩酸をかけられたひばりは、急いで水で洗われた。この処置が幸いして全治3週間の火傷で済み跡も残らなかった。

 浅草署へ連行された少女は半狂乱で「死にたい」と泣きじゃくっていたという。本田靖春『「戦後」 美空ひばりとその時代』によると、地元山形の新聞は事件を少女の顔写真入りの実名で報道し、そのため彼女は「塩酸少女」として県下に知れ渡ることとなった。少女の母親が1966年に死亡すると、自殺じゃないかとの噂が近辺には流れた。本田は少女本人を探し当て電話取材をしたが、具体的なことは何も聞き出せなかった。

 竹中労は『完本 美空ひばり』に、ひばりの口述という体裁で(果たしてそうか疑わしいが)こう記している。

「私は、こう思います。あの塩酸は私にではなく、ゆがんだマスコミの鏡の中の、“人気”という怪物に浴びせかけられたのにちがいないと。(…)同じ一九歳の、その人と私との間に、暗く大きくひらいた距離に、私は慄然としました」

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