>  > 『セカネコ』、“感動”へのアプローチを探る

『セカネコ』設定に見る“感動の方程式” 余命わずかな主人公はなぜ葛藤し続けるのか

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 映画プロデューサーが監督業に乗り出すことは珍しい話ではないが、小説家を始めるという人はあまり聞いたことがない。しかし、『電車男』や『告白』など流行のコンテンツをヒット作へと導いてきた映画プロデューサーの川村元気が、小説家としても成功を遂げたということは、話題性に対して非常に敏感である姿勢が、プロデューサーをはじめ映画監督から小説家まで、クリエイション全体に関わる者にとって、欠かせないものであるということである。

 彼が初めて手がけた小説『世界から猫が消えたなら』は、現代のコミュニケーションツールとして欠かすことのできないLINEで連載するという画期的な方法論を編み出し、累計発行部数100万部を超えるベストセラーを記録。単行本化からラジオドラマ化、コミカライズときて、ついには映画化までこぎ着けた。これほどまでメディアミックスされるというのは、ヒットコンテンツである何よりの証だ。

 余命わずかを宣告された主人公の前に、突然自分と同じ姿をした悪魔が現れる。悪魔は「大切なものをひとつ消す代わりに、一日の命を与える」という取引を持ちかけるのだ。手始めに「電話」が消されることになり、主人公は最後に元恋人と連絡を取ることにする。彼女との出会いは一本の間違い電話であり、電話がこの世界から消えてしまうと、彼女とは出会わなかったことになる。つまり、大切な思い出もすべて消えてしまうのだ。

 日本映画が最も不得意と言われているファンタジーというジャンルを、文学から映画へと生まれ変えるとなれば、原作者・川村の本業である映画プロデューサーとしての手腕が遺憾なく発揮される。と思いきや、彼はあくまでも原作者としての立場に徹し、製作サイドには関わらないという予想外な手段に打って出た。それでも、劇中には原作をなぞったのか、川村の好みの映画が次から次へと登場する。主人公・佐藤健が宮崎あおい演じるヒロインと出会う、間違い電話の場面がある。そこで佐藤健はフリッツ・ラングの『メトロポリス』をDVDで観ているのだが、ヒロインは電話越しにゴットフリート・ヘッペルツの劇伴を聞き当てるのだ。

 このSF映画の古典である『メトロポリス』は、把握しきれないほど数多くのバージョンが存在している。たしかに日本国内に流通しているバージョンでは、劇伴のバリエーションも多くない。それでも、サイレント映画の劇伴を聞き分けるというのはなかなかシュールな入り方だ。もっとポピュラーなテーマ曲が流れる映画を選択した方が良かったのではないかという気もするし、それこそ特徴的なジョルジオ・モロダー版でも……と、余計な考えを膨らましてしまうあたり、もしかしたら筆者の心が綺麗ではないのかもしれない。

 それ以外にも、「映画」に対する扱いには他にもいくつか疑問が生じる部分がある。例えば映画館の場面で、デヴィッド・フィンチャーの『ファイト・クラブ』と岩井俊二の『花とアリス』が二本立てで上映されているが、これはおそらく、主人公と悪魔という、対照的な人物が登場する本作を連想させるために選ばれたものだろうか。

 余命がわずかと知らされた主人公が、残りの生きている時間を過ごす映画というのは、これまでも数多くある。日本でもヒットしたイザベル・コイシェの『死ぬまでにしたい10のこと』やロブ・ライナーの『最高の人生の見つけ方』、直接的に余命わずかというわけではないがアニエス・ヴァルダの『5時から7時までのクレオ』も同じだ。いずれも「死」を受け入れて、これまでの人生で積み重ねてきたことをひとつも否定せずに、「生」を謳歌しようとする人々が描かれるものだ。だからこそ、生きている観客はそれに感動する。

 一方で、本作では「死」を受け入れることへの葛藤が繰り返される。それと同時に、主人公はたった一日の延命のために、これまで築き上げた人生を棒に振るうような選択を繰り返してしまうのである。果たして主人公は与えられたわずかな「生」の時間を、有意義に使えていただろうか。そんな疑問さえ感じてしまうのであるが、これは映画自体が求めている「感動」へのアプローチの違いだろう。

      

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