>  > 菊地成孔、『ハッピーアワー』を語る

菊地成孔の欧米休憩タイム〜アルファヴェットを使わない国々の映画批評〜 第3回(後編)

「シネフィルである事」が、またOKになりつつある 菊地成孔が“ニュー・シネフィル”映画『ハッピーアワー』を分析

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まあ、どこから観ても問題作(批評は混乱するであろう)

 『ハッピーアワー』は、これこそ現代日本の作品としか言いようがないです。韓国でこんなことできないというか、できたとしてもホン・サンスしかいないというか。上映時間も長い〔317分〕だけではなく、語るべきことが多過ぎて、たぶん批評も混乱すると思うんですよ。ただ、黙っているわけにはいかない映画でもあるので、いろんな人がいろんな事を言うはず。サブカル系もしくはすごいシネフィルの人が大いに語るということになるのか、あるいはエンタメ系の人も何か言っちゃうのか。

 ワタシもそこそこ長く成るので、最初に一言で済ませてしまうと、すごくいい映画なんだけど、1点だけ悪いことがあって、それは「いかにもロカルノで賞を獲りたそうなつくりで、それで実際に獲っている」という(笑)。前回、『無頼漢』でも説明した「カンヌ狙いでしょう。はい、そうですカンヌで賞獲りました」という感じです。(参考:韓国ノワールはなぜ匂い立つほどリアルなのか? 菊地成孔が『無頼漢 渇いた罪』を解説

素人使用は、実は批評の口をつぐませる

 それ以外は誰も文句言えない。言わせないというかね。つまり誠実にやっているわけで、長さに見合った膨大な構造的な問題をはらんでいる。とりあえず、先ず話題になるのは、出演者全員素人ということ。出演者全員素人というと、一般層は驚き、シネフィルは驚かない。勿論、ロベール・ブレッソンがいるから。ブレッソンだけじゃない、日本のATGではオーディションでずぶの素人を主演にするということも結構やっていた。ルキノ・ビスコンティの有名な『揺れる大地』なんて、ブレッソンの代表作『スリ』や『抵抗』よりも古い。『吸血鬼ノスフェラトゥ』のムルナウが作った『タブウ』なんて戦前のドイツ表現主義なのに、南の島の映画を、ちゃんと台本も書いて現地の島民にやらせた。

 また、極端に言ったら、これはジョークに近いけれども、薬師丸ひろ子は後に名女優になったから、みんな忘れちゃっているけど、角川の1本目の『野性の証明』では完全な素人だったわけで、2本目の『セーラー服と機関銃』ですでに名女優だった(笑)。これはハリウッドのスター開発システムと同じで、オードリー・ヘップバーンの『ローマの休日』は、一応、主演第一作だけど、映画自体は、端役も入れれば5〜6本いってる。このシステムは、「回りを名優で固めて、ハリウッドシステムに適応させる」というやり方だから、まあ全然別件ですけど。「素人の力」を導入している事に変わりはない。

 そして、「新人女優発掘主演パターン」を除けば、他の映画は必ず、第一には「意欲作」「異色作」と言われ、続いて<映画とは何だろうという根本的な問いかけをしてくる>と必ず言われる。

 それ以上の批評が、個々の批評家の、個々のスキリングを超えて、構造的に「そこまでしか言わせしめない、限界性」に触れてしまっている。「他に言い様がないよね」という(笑)。まあ一種の批評的なレグレクトだけれども、『ハッピーアワー』は、前述の通り、批評の言葉の限界性を突いて、(善くも悪くも)批評を封じてしまう。という風にはならない。もっとザワつくものに満ちています。

 どうやら、日本映画が、「素人を使う」という事は、21世紀的で、確かに<映画とは何だろうという根本的な問いかけをしてくる>のは言わずもがな、もっともっといろいろ語るべき、一種の批評誘発性というか、誘惑者としての色気がある(主演女優に。といった意味ではない)。

 ここでは、単に「素人に演じさせた」というアクションに、現代的で切実な問題がたくさん含有されてしまっています。

リアルの問題

 リアルの問題、フォームの問題、俳優の身体性の問題、方言の積極的使用etc,etc、これらは各々「ドキュメンタリストであること(ドキュメンタリー映画と劇映画の液状化)」「撮影方法や、演技方法、つまり、方法を、一から作らないと、現行の<方法>が、死にかけてしまっていること」「(恐らく、推測だけれども)フェミニズムの問題の一貫として、いろいろな顔や性的表徴を超えて、<体型><顔の作り>が、声の出し方を決定する。その際に、実は女性が問題にするべき、個々人の個性としての<顔と身体>は、ジェンダー的な美醜とは別に、純化された「女性としての個性」として、本人も他人も、よく見える様、聴こえる様にすべきだし、とはいえ、アニメや漫画の様に、類型的でヴァラエティには富んでいない(主演の4人は、顔も声も全員違うが、ほとんど同じ身長と体つきをしているとも言える)」、そして「<標準語>という、人工的な言葉が、どれほどのリアルを伝えられるか?<完全な標準語>とは存在するのか?」といった諸問題を、静かに、しかし秒刻みで観る側に突きつけて来ます。

 「休憩が二回はいるほどの長尺」という事の必然性は、上記の様々な問題と、総てターミナルの様に関係している。そもそも映画語法の大基礎である「モンタージュ理論」を提唱したエイゼンシュタインが言う「冗長性の排除」という、名目は、逆転的に(つまり、乱暴に)、敢えて退屈で冗長な状態を映画の中に導入するのではなく、もう一度、絶対悪である「冗長性」について考え直そうという意思を感じます。

実は今回、総て推測です(実作者からの訂正があったら承ります)。そしてリアルの問題続く

 「感じます」と歯切れが悪いのは、ワタシは不勉強にして、濱口監督のことを全く一切、何も知らないので、今から書く事は全部が推測になってしまうので、それを最初に断っておかなければならない(ググったり、パンフについている解説を読めよという声があるだろうけれども、あれはーーーワタシの考えではーーー全く役に立たない。少なくとも「ちょっとでもその人を知る」という意味では。それだったら、初見で推測する方が、リスキーだが穫れ高も高い。とワタシは信じています)。

 と、いきなりこれは余りにも基本的な話しだけれども、そもそも俳優さんというのは何をやっているかというと、アンリアルもしくはフェイクをやっているわけなので、本来「俳優がリアルな演技をする」というのは語義矛盾で、俳優は構造的にリアルな演技はできない(俳優をドキュメンタリー作品の中に入れてしまわない限り)。そうなったときに、構造的に突破しようとしたら、これはもう一番乱暴な方法だけど、全員素人にすれば、演技はリアルだということになる。しかしそこは、ありきたりなアンビバレンスというか、素人もカメラの前でしゃべらせると、だんだん演技し出すから、本当に難しい。隠し撮りだけで一本作った作品は無い。

音楽に於けるアマチュアリズムとの違い

 というのは、音楽もそうで、パンク/ニューウエイヴという、「音楽的な無教養/無経験主義」の次に来て、ニューウェーブを更に純化させた「ノーウェーブ」は、そもそも楽器をやったことがない人だけを集めて作った『ノー・ニューヨーク』というアルバムがきっかけで、完全に素人が演奏すると、演奏はダウンせず、むしろ、とんでもない生々しいリアルなロックサウンドになると。直前のパンクも、ずっと過去のブルースも、最初はそうだったのだという、アカデミズムの外にある音の歴史と繋がっている事がひしひしと、鮮烈に伝わって来た。

 これの対極にある、総てを一流のスタジオミュージシャンにとことん演奏させるスティーリー・ダンみたいなものもあって、これを極左とすると、あとはみんな「真ん中」に納まる訳です。

 音楽の場合、この次の美学的な論点は、プロといっている人だって、苦手なことをやれば素人くさくなるし、素人臭い「ヘタウマ」も、上手く行けば凄く良いよね。といった何か物わかりのいいところに着地して、「まあ、あまり考えないことにしよう」ということになりがちなんだけど、映画はそうさせない。

 何故かと考えると、音楽、特に楽器の演奏やがっつりした作/編曲というのは文法から書方から、演奏者のスキルまで、善くも悪くも「フォーム=形式」ががっちり固まっているからだと思います。それに比べると映画の歴史は(善し悪しではなく)まだ浅く、基本的には未だに闇鍋状態というか、外人部隊の寄せ集め、所謂フュージョン状態になっていて、前に『ロマンス』で書いた「映画の演技」というのが、「別ジャンル(テレビドラマ、コント等々)の演技との偏差」としては存在するけれども、独立したフォームを持っていないまま、暫定的に(株価の様に)「やわらかく確率されている」事が解る。

 つまり、ここで次に出て来る疑問は「映画における、演技と撮影の<フォーム>とは何か?」という事になる。「映画という存在自体を根底から問い直す」と言っても、既に映画はどんどん製作され続けているので、こんなエッセンシャルでスタティック(静的)な問いは、ほぼ役に立たない。

 それよりも、日々量産される映画には、いろんな出自で演技を学んだ俳優達が、各々のフォームで演技をしながら、カメラはそれを、(歌舞伎やシェイクスピアシアターのような)全員が一定のフォームで発声し、動いているかの様なそぶりで撮影することになり、一度フォームの問題に目が行った瞬間から、映画というのは、根源から揺さぶられかねない。

 音楽なら、クラシック上がりの奏者と、ジャズのスキルがベースの奏者と、独学のロックファン上がりが一緒に演奏して、歌がそこそこ上手いアマチュアだったり、コンピューターで音程修正された完全な素人であったり、驚異的な歌唱力を持つ演歌歌手であったりする事が、演奏中に完全に歴然としていようと、音楽を根本から揺るがす問いには至らない。そこには「ミクスチュアスキリング」という、(音楽では)当たり前のことが起こっている事の確認があるだけです。

 再度強調しますが、ワタシは大変不勉強な事に、この濱口竜介監督の映画を見たのは初めてで、てっきり『ハッピーアワー』を意欲的なデビュー作だと思っていたら、とんでもない話で、フィルモグラフィー見たらもういっぱいやっている人で、世界的にも注目されている人で、また、これも繰り返しになるけど、インターネット一夜漬けは、ワタシの規定では悪時でしかないので、していません。なので、以下、総てがワタシの推測になるので、この連載枠内での訂正要求は、いくらでも飲みます。まあ、そもそもこの連載自体が「予備知識ゼロで観るとどうなるか?」という批評実験の側面もありますし。

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