『冬のなんかさ、春のなんかね』はなぜ視聴者の支持を得られない? 独自の魅力を深掘り

控えめに言っても、これまでの常識を覆すような、とんでもないドラマシリーズが誕生したという印象だ。日本テレビ系で放送中の『冬のなんかさ、春のなんかね』のことである。
メインの監督・脚本を今泉力哉が務め、第3話・第4話を山下敦弘監督が演出しているという、映画ファン垂涎といえる豪華な座組。だがそれ以上に、このドラマは前衛的な内容によって、後々伝説化していくほどの予感を抱かせるのである。
とはいえ衝撃的だからこそ、どうやら多くのドラマ視聴者には、なかなか受け入れ難いところのある内容だと認識されたようだ。人気俳優・杉咲花の主演作品として期待されながら、第5話が放送された現時点でのエピソードの視聴率は3%台にとどまっている。ゴールデン帯のドラマとしては、非常に厳しい数字と言わざるを得ない。
ここでは、この驚くほどに挑戦的な本シリーズ『冬のなんかさ、春のなんかね』が、なぜコア層以外の視聴者の支持を得られなかったのかという部分を探りつつ、だからこそ希少性のある作品の独自性と魅力を深掘りしていきたい。
まず衝撃的なのは、1話ごとの構成の凄まじさだ。極端な長回しによって、俳優同士の演技をその場の空気ごと映し出すといった、今泉監督の過去の映画のテイストが前面に押し出され、何も薄めない“原液”の状態で提出されているのである。もうこの時点で、何かやばいことが起こっているという雰囲気をひしひしと感じさせる。
今泉監督は、バランスを欠いた仕事をするクリエイターではない。一部では個性的な作家性を爆発させていながら、例えばドラマシリーズ『からかい上手の高木さん』(TBS系)などのような企画においては、作風を部分的に抑えることで作品世界を成立させるといった、常識的な職人性を持っている。それを思えば今回のシリーズは、企画段階から製作陣が明確な意図を持って、監督本来の前衛性を打ち出させていることが類推できる。
面白いのは、こうした特異な作家性を持つ、“売れ線”からは遠いと思われるような監督が、意外と幅広い人気を獲得してきたという事実である。今泉監督の長回しは、俳優に大きな比重、あるいは負担がかかる演出法だといえる。
それだけに、その俳優のファンである観客や視聴者が、じっくりとその厳しい場に身を置いた演技者の奮闘や魅力を堪能できる。そして対応力に優れた俳優ほど、そこで持ち前の力を発揮し、見せ場を作れるのである。だから、“俳優で作品を観る”受け手にこそ、今泉監督の突出した作家性による世界を楽しめるという、一見矛盾した現象が起こる。
しかし、その手法がTVドラマという枠で支持を得るのに効果的かどうかというのは、また別の話なのだろう。よく知られているように日本のドラマは、“料理や洗い物をして画面から目を離していても理解できる”といった、徹底した分かりやすさが必要だと言われてきた。それは、俳優の細やかな表情の変化や、独特の“間”などに大きな魅力が宿る今泉演出とは真逆の価値観だといえる。
本シリーズが挑発的なのは、そういった演出に加えて、セリフの端々を聞いていないと登場人物の関係性や状況が分からないほど、状況の説明が省かれている点だ。視聴者は会話の断片により、それぞれの立場や感情を類推していくことが求められる。画面を見逃していたり、セリフを聞き逃してしまうと、楽しみ方を見失ってしまう。TVドラマの作法である“分かりやすさ”に慣れた一部の視聴者が離脱してしまうのも頷けるところだ。
もちろん、その異様さにいち早く気づき、画面に集中して視聴する人もいるだろう。本シリーズは、そういうタイプの視聴者にこそ微笑む。ここでの会話の一つひとつ、仕草や態度のあれこれが、俳優の魅力のみならず、ある種のミステリーやサスペンスをストーリーに醸成させることを、緊張感を感じながら楽しめるのである。つまりは、内容の詰まった長回しだというわけだ。

























