菊地成孔の欧米休憩タイム〜アルファヴェットを使わない国々の映画批評〜 第3回(後編)
「シネフィルである事」が、またOKになりつつある 菊地成孔が“ニュー・シネフィル”映画『ハッピーアワー』を分析
タランティーノが生んだ「秘宝」系という巨大マーケット
タランティーノがうまかったのは、本当はタランティーノはシネマテーク・フランセーズとかもイケてる人間で、何せ自分のプロダクションの名前(今は解散)ゴダールの『はなればなれに(Bande à part)』という映画のタイトルだし、やる事の端々に、ちょちょっと暗号みたいにヌーヴェルバーグやルビッチを入れて来る一方、敢えて千葉真一だとかを前に出していって、難しい映画じゃなくていいんだよという。アジアのB級アクション映画をいっぱい知っていて、それだけでこんなに面白い映画ができるんだという演舞を行った。
つまり『映画秘宝』的なマーケットを作った訳だけど、それはここ数十年で、一番上手く行ったマーケットで、何せ虐められっこでも、無口な引きこもりでも、誰でも丘ヤンキー(80年代の「丘サーファー」からの転語。ネットだけでB-BOY的な言葉遣いで、ちょっとワルぶる。というプチ万能感。因に、小規模流行語に成った「マイルドヤンキー」とは全く意味が違う。あちらは本質の変化、こちらは人格分裂に近い演技性のこと)になって大威張りになれるし、幼稚な男泣きも許され、しかも好きなだけ語ってもオタク認定によるキモがられのリスクが低い。
こうした「秘宝」的なマーケット/基本価値の完成に尽力したのが、例えば町山智浩さん等で、彼等(と、ひとくくりにするのは乱暴ですが)とてタランティーノと同じで、実はシネフィルなのだとしても、強いマーケットが形成されて行く勢いと、その結果というものの強度には抗えない。要するに「<ボンクラ>という完成度の高いマーケット」は、アート映画を知らないけど、娯楽映画をいっぱい見ていて、ヤバい映画、プログラムピクチュアをいっぱい見ていて、それをくみ上げていって、萌えがいっぱい入っていて、オタクが見るとニンマリする(たまにシネフィルにもウインクするーー3年に1度ぐらいーー)というタランティーノの作法の構造化で、90年代以降、事は単に「映画秘宝」のカラー、という事を超えて、インターネットによる批評(まだ「SNS」という時代ではないので)の発生、という、文革みたいな流れも手伝い、(死語ですが)ひとつの時代を作った。と言えます。ウォシャオスキー兄弟だけでも、タランティーノだけでも、インターネットだけでも、この時代/マーケットは形成され得なかった。
「ヴェンダースからタランティーノへ」という流れは、対立項としてのカレッジワイズとストリートワイズというか、ジャズやクラシックもそうなんですけど、要するに「大学で勉強して来たろ?」感から「ストリート育ちだな」感への無血革命みたいな物で、つまり「秘宝」は学歴コンプレックス(因にワタシは高卒ですが)に対しても、凄く上手にキャッチアップしている、高学歴者が高学歴者ぶらない世界。
そういう中、前述の通り、全然シネフィルっぽくない人、日本人だと園子温だとか三池崇史とか、作風やルックスや、その人の記号的な消費のされ方がシネフィル的ではない人が出てきた。ジャン・ヴィゴとかフランソワ・トリュフォーとか、全部見ている感じは全くしないという。かといって、タランティーノとも違う。漫画なんかを原作にして、ゼロからつくり上げて、今のオタクで映画見る人たちの気持ちにすごく応えているんだという感じで。
園子温なんかは『冷たい熱帯魚』みたいなものすごい残虐な映画撮っていたかと思うと、ちゃんと萌えが入っていて、『愛のむきだし』では満島ひかりさんのパンツが見えていたり、ちゃんとサービスも忘れない。最近では、『TOKYO TRIBE』とか『みんな!エスパーだよ!』みたいなのまで撮ったりして、何でもやるけど、シネフィルには見えないと。ホントはシネフィルであるタランティーノとは全く違う。
フォームなき国のフォームは?
では、シネマなのにシネフィルじゃない人が撮る映画とは何だろうか? 何のフォームによって役者は駆動されたか?
演劇と漫画だと思う。どちらも物凄くフォームがしっかりしている。「Vシネマ」も初期に於いては、その形式性から、フォームとして遣われている。
そして物質的なフォームではなく、心的なフォームだけれども「萌え」も、フォームとして大きく、強く作品のリビドーを稼働し、律していた。「萌え」はカワイイだけではなく、残虐描写や、エグイ描写や、自虐描写も含まれる。
やっとここで『ハッピーアワー』に戻って来る。オタクが全盛で、シネフィルみたいなものはウザがられるようになると当然、反動も出てくるわけで、いやいや、ブレッソンですよ、ゴダールですよ、ロメールですよ、萌えなんかあるわけないじゃないですか、気に食わない方は見ないでくださいという感じの態度もアリになってくる。
それを平然と、特に考えずにこじ開けたのがホン・サンスで、韓国映画界のこととか何も考えていないような人だから、自分がフランスに留学して、アメリカに留学して、それで好きなだけ映画を見て、バカ正直にゴダールとロメールを韓国人でやったらどうなる? とやったところ、興収はすごい悪いけど、評価はメタクソに高いカルト監督になった。それで、ホン・サンスがやれるなら、と考えたかはわからないけれど、1つのムーブメントが起こるときの同時多発性という感じで、「ライフアクアティック」等の細くて長い助走の果てに、近年だとホン・サンスとか、『フランシス・ハ』とか、後述しますが『友だちのパパが好き』とか、「『ハッピーアワー』みたいな作品が出てくるのは、時代の必然だと思うんですよね。21世紀ですよね。
劇団か? いや、違うのでは?
『ハッピーアワー』は、パッと見た感じ、演劇とどのぐらい関係があるかがわからなかった。厳密に言うと「どうせ監督主催の、劇団独自の演技フォームから作る劇団があって、そこの役者だろ?と思ったら、観れば観るほど、<劇団>の感じがしなく成って来た」というのが正しい。
ただ、チラッと何かのフライヤーの端に書いてあって、迂闊にも読んじゃったんだけど、この監督は劇団を持っているわけじゃないけど、「素人が演技するワークショップ」をやっていて、この映画もその産物(象徴的な意味ではなく、具体的に、そのワークショップの卒業制作的な作品)なんだということがわかった。
ということは、ブレッソンともまたちょっと違うし、例えば松尾スズキさんみたいに劇団を持っていて、劇団員の中の面白いキャラの人を次々スターにしちゃうというようなのとも違う。C.ガニオンみたいなドキュメントの手法で、脚本はしっかりしているんですね。即興性はまったくなくて、脚本は5時間分ガチガチに書かれているように見える。即興性は感じない。しかも、オレオレのカリスマ映画というより、共同脚本で、もう相当練り直して、練り直してやっていると思うんですよ。