「シネフィルである事」が、またOKになりつつある 菊地成孔が“ニュー・シネフィル”映画『ハッピーアワー』を分析

菊地成孔、『ハッピーアワー』を語る

方言使用は成功したか?

 その事に関するエクスキューズの様に、登場人物の1人が「私もう、あんな頭のいい人ばかりの集団、よう行かん」「疲れる。言葉が追いつかない」と言うシーンがある。これはエクスキューズというより、どちらかというと、単なる第一リアルに思える。何故なら、方言であらば、日本人はアメリカ人や韓国人ぐらいは喋る可能性があるからだ。

 監督が東京出身で、その後、震災の被災地で長く暮らしながらドキュメントを撮って、何故か(恐らく)この作品の為に神戸に越した。震災繋がりといった具体的な意味があるのか、単に近親者が神戸出身で、神戸の方言に慣れていたのか(更には今度、海外に定住して作品を撮るそうだ)、理由は解らないが、狙いは解る。日本人が饒舌に成れないのは、「月が綺麗ですね」方式の、古代からのシャイネスだけではなく、やはり「標準語」というフォームが、エスペラントとまでは言わないが、基本的にはかなりの作り物で、フォームとしてガクガクだからだ。ネットに先に現れるスラングや、集団的に自然発生するスラング(ギャル語的な)は、フォームを失った「標準語」に、リアルな「オリジナル方言」を搭載し、水平に駆動させる為だ。しかし(流行語等も含む)スラングは劇映画の中では非常に扱いづらい、単なる風俗描写に見えるからだ(因に、最初の方に書いた、ムルナウの「タブー」も、ビスコンティの「揺れる大地」も、方言100%である)。

 しかしそれでも、「土地の方言なら、人は饒舌に成る」というアベレージを本作は超えている。それはやはり第三リアルだろう。方言が派手に飛び交うだけなら、テレビでもよく体験する聴覚経験である。洒落みたいになるが「方言」を「方便」に、本作は、第三リアルを推進する。

 登場人物のひとりは、最後の方でクラブが祝祭空間みたいになって、みんなにゴルゴダの丘のキリストみたいに持ち上げられて運ばれて、あんなこと起こる?絶対起こらねえ。とか思うんだけど、これは、第三リアルがここまで誘導する、という構えも見せているわけです。

 この「第一リアル=単なるドキュメンタリー」ではなく、「第二リアル=ドキュメンタリーのカメラがドラマを撮る」でもなく、キャメラと俳優が止揚的に融合する「第三リアル」は、自由にして自在で、奇妙で真新しい、新築されたばかりのフォームによって、異様な現実観をネットワーキングする。

第三リアル。が必要なわけ

 これは本当の意味での日本映画であって、そもそも誰もが演説の様に喋り、気の利いたジョークを言おうとするアメリカが、映画の中でどう振る舞っていいのかということは、日本と全く逆の意味で、混乱する。ユダヤ式のスタンダップコメディアンの喋り方か、シェイクスピアシアター的な、英国調の演技力か、ブロードウエイでさえ、統一規格がある訳ではない。ましてや移民国家だ。

 なのでアメリカにはスタニスラフスキー・システムとかいろいろあって、マリリン・モンローが、どうやってただのおバカ役者から演技派になったかというときに、やっぱりちゃんとメソッド演技を習ってやっている。という話しは聞き飽きたほどだ。つまりリフォーム屋や、フォームインストール業者が存在するという事だ。泣きかただけで1時間2万円とか。結構ヤバいビジネスとも言える(アメリカは精神分析や自己啓発も盛んなので)。

 日本も昔は、例えば緒方拳は新国劇だし、石坂浩二は文学座だし、要するにいろんな劇団員の混成部みたいな形で映画撮っていた。彼等は、各々独力で、自分のスキルであるシアトリカルな演技と、テレビ用、舞台用、更にはバラエティ用の演技プランを打ち分けられる様にし、バイスキルからマルチスキルへ、各人がブラウン運動的に動いて、日本映画界の活況を乗り越えていた。活況なので、スキルが統一化されていない事が気にならなかった。ここに5社のニューフェイスシステムが導入されると、小林旭さんは一生演技の指導を受けていないから、ずっと大根のままだとか、そういうようなことが起きはじめる。

フォーム混在の果ての21世紀(取りあえず「蜷川シャクティーパッド」)

 現在の俳優は「何となく、<映画風>の演技」を、「何となく<映画風>の演出をする監督」に求められ、OKが出たりNGが出たりしている。安定的なようで、かなり脆弱である。アメリカでは演劇がダンスや歌と同じようにスキリングとしてもう独立している。だけど、日本の場合、歌や踊りなら、アイドルの人は一生懸命勉強するわけだけども、演技をメソッド演技としてやるということがあまりないので、勢い「何となく」になる。

 だから野放しのまま映画俳優が映画をやると。それで少し売れてくると、みんな蜷川シャクティーパットを受けて、舞台を経験し、宮沢りえから誰から、みんなが演技派にロンダリングされて、映画俳優として一皮むける。というシステムがあって、演劇の寡占状況が生じるしかないんだなと思うわけです。

 そういった、クラッチされた状況の中、リアルよりリアルな虚構としての、第三リアル、ニューリアルを、この作品狙っていて、ほぼほぼ成功している様に見える。しかも、新しい演劇や舞踏のニュオーフォーマティズムも使わず、独自のメソッドによって。

メソッド演技、メソッド撮影の創造と実践(シネフィルなのに)

 ただ、日本人がどう評価するかというのは、非常に難しいところです。萌えがまずないし、あとお楽しみ=ギフトが無い。あと、全く新しいメソッドを導入してきて映画を撮るという、極めて方法論的な監督であるにもかかわらず、シネフィルでもあるという気がすごいするんですよ。やっぱりブレッソンのことを絶対意識しているだろうし、ジョン・カサヴェテスも絶対意識していると思う。

 そういうものを全部知っている上で、ニューメソッドの組み立てを急務としている。これは20世紀的なシネフィルの動き方とは全然違う。昔のシネフィル的な映画は撮らないよ、というものだと思う。だから、ものすごく新しい映画ですよ。「シネフィルでありながらにして、新しいメソッドをつくった人の映画」ただ、それがどう評価されるかのは、すごく興味があるところです。

 だからこそ、これはどなたにでもおすすめできる、老若男女に見てほしいと言えるかというと、残念ながら微妙だなと。シネフィルからまずお先にという感じでしょう。とまれ、旧世代のシネフィルが見ても、シネフィルへのくすぐりはありませんよというアティテュードの映画です。山内ケンジ監督の『友だちのパパが好き』(ワタシ個人はあの作品はキツかったけれども)、冨田克也監督の『バンコクナイツ』(制作中)等と並び、「はい。わたしシネフィルですよ。萌え知りません。ジャパンですけどジャパンクールじゃありません」といった、「ニュー・シネフィル映画」が潮流をなしそうな気がちょっとします。

■公開情報
『ハッピーアワー』
12月シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開
監督:濱口竜介
脚本:はたのこうぼう(濱口竜介、野原位、高橋知由)
製作・配給:神戸ワークショップシネマプロジェクト(NEOPA,fictive)
出演:田中幸恵(あかり)、菊池葉月(桜子)、三原麻衣子(芙美)、川村りら(純)
©2015 神戸ワークショップシネマプロジェクト
公式サイト:http://hh.fictive.jp/ja/

関連記事

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「作品評」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる