荏開津広『東京/ブロンクス/HIPHOP』第7回:M・マクラーレンを魅了した、“スペクタクル社会”という概念

 「Buffalo Gals」のミュージックビデオには、ブレイクダンサーのRock Steady Crewが起用され(同じ年、実は中西俊夫も自身のプロジェクト”Melon”に彼らを出演させたことは以前書いた)、コンテンポラリーアーティスト、ジェニー・ホルツァーの有名な作品のように「ALL THAT SCRATCHIN’ IS MAKIN’ ME ITCH」といったテキストが電光掲示板からマンハッタンの都市空間へと流されていく様子が映される。

 1970年代の半ばに人知れずサウス・ブロンクスで生まれたヒップホップを、こうしてマルコム・マクラーレンは残りの全世界へと紹介した。

 SIの影響はこの後も彼につきまとったので、アルバム『Fans』(1984年)や『Paris』(1994年)も、彼にとって憧れの神聖なパリという街やヨーロッパのカルチャーをスペクタクル化しようとし、失敗した作品としても捉えられる。

 さて、1979年にニューヨークのインディ・レーベルからリリースされたSugarhill Gangの「Rapper’s Delight」は、最初期のラップレコードとしてはとても息の長いヒットになり、その後数年かけてグローバルなヒットになって様々な都市に“ラップ”を伝えていった。

 1980年4月、日本のラジオ番組でこの「Rapper’s Delight」に乗せてエスカレートしていく2人の男のリズミカルで奇妙なやりとりが放送された。曲名はまだなかったが、これはのちに「ごきげんいかが1・2・3」として知られていった。ラジオ番組の名前は『それゆけスネークマン』ーー桑原茂一、小林克也、伊武雅刀による、カウンターカルチャーに影響を受けた笑いを得意としていた“スネークマンショー”だ。

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※註1:『否定としての転用と序曲』ギイ・ドゥボール、p.10、『ポスト・ポップ・アート』ポール・テイラー編、スカイドア、1994年。

■荏開津広
執筆/DJ/京都精華大学、立教大学非常勤講師。ポンピドゥー・センター発の映像祭オールピスト京都プログラム・ディレクター。90年代初頭より東京の黎明期のクラブ、P.PICASSO、ZOO、MIX、YELLOW、INKSTICKなどでレジデントDJを、以後主にストリート・カルチャーの領域において国内外で活動。共訳書に『サウンド・アート』(フィルムアート社、2010年)。

『東京/ブロンクス/HIPHOP』連載

第1回:ロックの終わりとラップの始まり
第2回:Bボーイとポスト・パンクの接点
第3回:YMOとアフリカ・バンバータの共振
第4回:NYと東京、ストリートカルチャーの共通点
第5回:“踊り場”がダンス・ミュージックに与えた影響
第6回:はっぴいえんど、闘争から辿るヒップホップ史
第7回:M・マクラーレンを魅了した、“スペクタクル社会”という概念

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