坂本龍一のキャリアにおける映画音楽の重要性 『戦メリ』から『怒り』までの変化を追う

 2014年7月に咽頭ガンの治療のため休養に入った坂本龍一だったが、約1年後には音楽活動に復帰し、また精力的な姿勢をみせている。昨年からは監修を担当するCDブックの音楽全集『commons:schola』の新刊発表、2012年のトリオ・ツアーのDVD化、過去作のリイシューもあったが、なかでも大きな仕事は映画音楽だ。

 復帰して最初の仕事が、『母と暮せば』(監督山田洋次)と『レヴェナント:蘇りし者』(監督アレハンドロ・G・イニャリトゥ)の音楽を並行して制作することだった。加えて、公開中の『怒り』(監督李相日)でも音楽を担当。短期間のうちに映画のサウンドトラック・アルバムを3作も発表したのだ。

 坂本龍一のキャリアにおいて、映画音楽は重要なものだった。彼はYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)で1979年から1980年に欧米ツアーを経験し、テクノ・サウンドで海外でも注目された。そして、坂本は自らも出演し、デヴィッド・ボウイやビートたけしと共演した映画『戦場のメリークリスマス』(1983年。監督大島渚)で音楽を担当後、デヴィッド・バーンなどと作曲を分担した『ラストエンペラー』(1987年。監督ベルナルド・ベルトリッチ)でアカデミー賞作曲賞を受賞し、世界的アーティストの地位を確立した。

 『戦メリ』の出演依頼があった際、本人が音楽担当を志願したというから、それが自分の海外進出の足がかりになるだろうという判断はあったと思う。坂本に関しては、ソロやユニット、コラボなどで多くのオリジナル作品を発表するだけでなく、海外映画の音楽を手がけることが、国際的アーティストとしてのわかりやすい存在証明になってきた面がある。

 かつて海外ツアーをした頃のYMOはボーカルの比重が小さく、インストゥルメンタル主体だった。また、映画音楽の王道は歌なしの背景音楽であったりもする。このことは、彼の活動に影響しているように見受けられる。

 東京藝術大学で修士課程に進んだ学歴があり、「教授」のあだ名を持つ坂本は、YMO以前にスタジオ・ミュージシャンとしてポップスにかかわっていた。幅広い音楽的教養を身に着けた彼は、テクノ、バンド、ピアノ・ソロ、オーケストラなど様々なフォーマットで多くのジャンルにまたがる音楽活動を展開してきた。<ヴァージン・レコード>移籍第1弾だった『BEAUTY』(1989年)に代表されるように、ゲスト・ボーカルを起用するだけでなく自らも歌い、ポップスのフォーマットで海外展開に力を入れた時期もある。

 しかし、歌手が本職ではないこと、ゲストに歌わせるのではソロ・アーティストとしての打ち出しが弱いことに関する制約の意識を自身が語っていたし、期待した成果を上げられなかったため、『SMOOCHY』(1995年)の後はポップス主体のアルバム作りから遠ざかる。

 コラボやユニットは別にして、ソロ・アーティストとしての主戦場は、アコースティックなスタイルやエレクトロニカによるインストに移した。国境を越えた活動をするうえで、歌も言語も不要なインストを主軸にしたのだ。同様にインスト主体である映画音楽を手がけることは、ソロ活動との間で相互に刺激となるし、アーティストとしてのポピュラリティを保つためにも役立ったようにみえる。

 一方、ポップスから距離を置いた坂本は、映画音楽でも作風が変化した。初期には『戦メリ』、『ラストエンペラー』、『シェルタリング・スカイ』(1990年。監督ベルナルド・ベルトリッチ)のようにメロディがはっきりしており、映画から離れても成立する曲が多かった。だが、ソロ・アーティストとしてのポップスからの転進と呼応してか、映画音楽のほうでもドラマチックなメロディからアンビエント的な抑制したサウンドへと重点を変えていった。

 ただ、映画音楽は、監督の目指す世界観に沿うべきものである。先方からの要求も多い。ソロ・アーティストとしての自由とは異なる制約のなかで、自分が持つ多くの引出しからいかに工夫して作曲するか、そこに坂本は映画音楽とむきあう楽しみを見出した。このため、映画ごとに曲調にバラつきはあり、その変化は必ずしも自発的なものといえない。だが、メロディからアンビエントへという全体的な方向性の移行は、坂本がゆるやかに選んできたことではあるだろう。

関連記事

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「アーティスト分析」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる