赤い公園の歌詞はなぜ聞き手を翻弄するのか 「私」を客観視する作詞家=津野米咲の魅力

 音楽はサウンドありき。歌詞も、リズムに乗ることや曲調とのマッチングが絶対条件で、コトバだけ取り出して語られてもね、というミュージシャンは多いもの。それでもあえてコトバだけに注目し、コトバからそのアーティスト/現在のシーンを見てみよう、という趣旨のコラムです。前回からだいぶご無沙汰でした。

 さて、今回俎上に載せたいのは赤い公園。ニューアルバム『猛烈リトミック』は評判もすこぶる良く、聴けば聴くほどクセになる傑作。もともとポップなのに複雑怪奇、曲がどんなふうに作られたのか全然解明できないバンドだったが、今はそこに突き抜けた勢いと痛快な明るさも加わって、4人が本当にいい状態にあることを感じさせる。

 赤い公園は、全員が90年代生まれ、新世代のキュートな女性4人組。こんな説明をせずともそのサウンドは非常に女性的だと思う。声のデカさや音圧で勝負する男根主義とは断絶した、線の柔らかさ、しなやかさ、陰陽では分別できぬ掴みどころのない空気。これが我らの勝負曲!というパターンも見当たらず、津野米咲の発言を引用すれば「いつも何かが不安定」なところが「女のコ特有のものかもしれない」(『音楽と人』最新号より)とのこと。非常に納得できる発言だが、それを本人が自覚して客観的に語っているところが、性別云々を超えた彼女の面白さではないかと思う。

 そんな津野米咲の歌詞。「いかにも女のコっぽいものは嫌」との理由で一人称を「僕」にしたり、あえて恋愛ソングを避けて通るスタイルを、彼女は決して取ってはいない。恋をしたり、仲間と騒いだり、ひとり静かに夜を過ごしたり、瘡蓋をはがすように己の傷を見つめなおしたり……。それはごく普通の女性の日常。「今日は会社の人と飲んで帰るから」とか「インスタントラーメンがのびる前においで」といった会話もそのまま歌になっており、日々を詩的に彩りたい、あるいは高尚に響かせたいタイプではないだろう。イメージの伝わる具体的なストーリーは見えないが、決して難解でもない。普通の生活を、そのまま書いている、作詞家としての津野米咲。なんだそれと思われそうだが、「そうしている私」を常に客観視している作家の視点こそが重要なのだ。

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