WONK・井上幹に聞く『Logic Pro』での空間オーディオ楽曲制作 「技術を閉じず、オープンにしていきたい」

WONK・井上幹に聞く「空間オーディオ」での楽曲制作

 4人組バンド・WONKが5月にリリースしたアルバム『artless』は、全収録曲をドルビーアトモスに対応させ、空間オーディオに関する技術を最大限に活かした作品となっている。

 リアルサウンドテックでは、空間オーディオについて様々な記事で取り上げてきたが、今回は同バンドのベーシストでもあり、エンジニアとしてミキシング・マスタリングまで幅広く担当している井上幹をインタビュー。ゲーム会社のサウンドデザイナーとしての顔も持つ井上に、『Logic Pro』を使った空間オーディオ制作やミキシング・マスタリングのこだわりなどについて、じっくりと話を聞いた。

 なお、取材と撮影は2つのドルビーアトモススタジオをオープンしたばかりのユニバーサル ミュージックで行った。(編集部)

『Logic Pro』を使った空間オーディオ楽曲を作った背景

――まずは今回の作品『artless』で、あえてドルビーアトモスを使うことになった理由を伺いたいと思います。

井上幹(以下、井上):Appleが空間オーディオやりますと言い始めたくらいのタイミングで、僕らは別の『Eyes』というアルバムを作っていたんです。それが終わった段階で「次はなにをしよう」とメンバー同士で話していたときに、Appleの動向を追うのが好きなメンバーの江﨑文武(Key)が空間オーディオのことを教えてくれて、「じゃあ次はこういうのにチャレンジしてみますか」と決まったんです。『Eyes』の制作中にもやってみたいという話は出ていたんですが、まだあまり一般に技術が開示されておらず、かなり面倒なフローを踏まないとできない時期だったので、そこから巡り巡ってこのタイミングになりました。

――ということは、空間オーディオを見越したデモ制作は2019年から行われていた?

井上:いえ、空間オーディオを前提とした音作りに関しては、今作のレコーディングが終わった段階で始めたんです。デモを作り終えたのがまさに今年の1〜2月くらいだったので、そこからですね。

――井上さんはもともと、GREE傘下のWFS社でゲーム周辺のサウンドデザイナーとしても活躍されていますよね。今回のAppleの動向云々よりも前の段階から、イマーシブな音作りには興味があったのでしょうか。

井上:2016年くらいから数年間、「VR元年」と呼ばれ続けた時期があったと思うんですが、そのあたりから自分でも興味を持って調べていて、色んな手段を使ってゲームに実装していったんです。ただ、当時は聴ける環境がかなり限られていて、あまり自分たちの音楽に採用するのは向いてないかなと。もちろん表現の幅は広がると思うんですが、聴ける媒体がないと誰にも届かない可能性があるので……。AppleやSpotifyのようなサービスが始めないことには、こちらが作っても仕方ない、という認識でした。

――聴く環境と作る環境については、いまだに限られてはいるものの、Apple Musicの対応を含めてようやく広がるフェーズに入ってきたので世に出そうと思ったということですね。実際に空間オーディオで作るにあたって、どういったツールやソフトを使ったのでしょうか。

井上:今回はかなりタイミング的にラッキーで。ちょうどMixを始めるぞというタイミングで『Logic Pro』のアップデートがあって、空間オーディオに対応したうえ、ドルビーアトモスもMixできるようになったんです。なので、今回は『Logic Pro』一本でMixしました。チェックにはもちろん『Dolby Atmos Renderer』も使いましたが、基本は『Logic Pro』で完結しています。

――なるほど! 『Logic Pro』で空間オーディオを作ってリリースした方のインタビューは初めてなので驚きました。

井上:『artless』のMixを今日から始めます、という次の日にアップデートがあったので、メジャーでは最速でリリースしているかもしれません(笑)。

――そういうことなので、伺いたいトピックがたくさんあり……いわゆるオブジェクトを配置していくという点については、ほかのツールとそこまで変わらないかと思うのですが、そのあたりはどうでしょう?

井上:『Logic Pro』ユーザーからすると、見知ったインターフェースのうえで、ドルビーアトモスの機能とDAWが統合されているというのはかなり使いやすかったですよ。

――たしかに、これまでは外部連携したプラグインを使うしかなかったわけですもんね。

井上:そうです。いつものMixのフローでできるので、ストレスはありませんでした。一つひとつのスピーカーの取り分が決まっちゃってるなど、細かい制約もいくつかあるのですが、それはおそらくAppleがより開かれたものになるために良かれと思って簡素化している部分のように感じて、僕自身は好意的に受け止めています。あと、なにより大きいのは、Appleが独自で使っている空間オーディオレンダラーが『Logic Pro』にしか入っていないこと。

ーーそれは大きいですね……。

井上:過去に『Dolby Atmos Renderer』と『ProTools』でやっていた方は、僕からすればどうやってAppleの出音をケアしてたのかなと不思議になるくらいで。

――過去のインタビューを踏まえると、『Dolby Atmos Renderer』でmp4に変換して、映像ファイルとしてiTunesに入れて空間オーディオで聴く、というようなやり方をしないといけなかったんですよね。それでも完璧な環境ではないということをそれぞれお話されていて。

井上:でも、そのやり方だと音が完全に同じにはならないので、このアップデート以降はApple Musicに出すなら『Logic Pro』でやるのがベターだと思います。僕はタイミングがめちゃくちゃ良かったので、ドルビーのレンダラーとAppleのレンダラーの中間を取るようなミックス作業ができました。切り替えて聴き比べて「こっちだとこうなるんだ」と細かく詰めていけたのは幸運なことだったのかもしれません。

――『Dolby Atmos Renderer』と『Logic Pro』のレンダラーで聴き比べてみて、その差異はどうでした?

井上:『Logic Pro』のレンダラーの方に、すごく意図的なイコライジングを感じました。「この定位に置くために、ここをこれくらい削っている」という意思がハッキリあるというか。あと、ファントムセンターの作り方が全然違いますね。たとえば、ドルビーアトモスでセンターに定位させたいとなると、センターのスピーカーから出すか、ステレオと同じようにLRから同じ音量を出してセンターに定位させるかの2種類があるんですが、キックとベースとボーカルをすべてセンタースピーカーから出すのは、いまの音楽の圧だとセンターがパンクしちゃうので無理なんです。

 だから、なにかをLRで振ることでファントムセンターを作って、各スピーカーが飽和しないように調整することになると思うんですが、そこが一番問題で。『Dolby Atmos Renderer』は各スピーカーの距離感をNearかMidかFarで決められるんですけど、Nearにするとファントムセンターがすごく綺麗に聴こえて、遠くにすると位相差みたいなのを感じるようになる。Farにしちゃうとファントムセンターがうまく取れないというか、フェーズがぐちゃっとなったように聴こえるんです。一方で『Logic Pro』のレンダラーにはそういう設定がなく距離感が固定されているので、ファントムセンターを作ろうとしても、どうしてもフェーズがぐちゃっとしてしまうという問題があって。

 そこはみんな苦しむところなんだろうなと実感しながら作っていました。結局どの楽器ならフェーズがズレてもいいかを考えながらファントムセンターを作るか作らないかの取捨選択をする、というのが一番のポイントでしたね。

――『Logic Pro』側だとそういう難しさがあったんですね……。井上さんの言うように「良かれと思って簡素化」しているものの、Appleが決めた形にキッチリと合わせなければならないというデメリットもあると。

井上:そうなんです。現代のポップスはボーカルがセンターのみということがほぼなくて、ステレオの場合はダブラーなどを使って外に広げるか、LRに別のコーラスや主旋律を入れて、ボーカルのワイドさを表現しようとするんです。ただ、『Logic Pro』のレンダラーだと左右のフェーズがグチャっとなるので、意図したボーカルにならずに位相がずれてるように感じてしまう。これはスネアもそうで、割とタイトにセンターから聴こえるようにさせたいというのがほとんどだと思うんですが、音量を出すためにLRに振ってファントムセンターを作ろうとすると、少しハリのない音に聴こえちゃうという問題があって。今回のWONKの場合は、ブラシを使っていたので位相差はそこまで感じませんでした。あと、キックは「そこまで位相差が気にならない」などを実験しながら作っていきました。

――たしかにそれはドルビーとの明確な作り方の違いですね。今回『artless』を聴かせていただいて、1曲目の「Introduction #6 artless」はまさに空間オーディオの使い方をデモンストレーションするような楽曲でした。

井上:WONKはアルバムごとにイントロダクションを作っているのですが、いずれもそのアルバムを象徴するような曲になっていて。今回も空間オーディオかつライブ感、人の気配というテーマを感じられるように作りました。

――空間オーディオで聴かない場合もライブアルバムっぽく聴こえますし、空間オーディオで聴くことで4人の足音の位置が動くのを楽しめる仕掛けになっていますね。空間オーディオ用に作った曲は、アコースティックなどのシンプルな構成で聴かせる方たちが多かった印象があるのですが、今作を聴いているとバンドの編成でしっかりと生楽器を使いながら、それをいかに空間オーディオ的に聴かせるかっていう工夫がなされているように感じました。

井上:ライブ感を出すというのは作品の根底にあったのですが、そのうえで驚きのダイナミクスを作ることは意識しました。これまでのステレオだと左右の音量差のダイナミクスか全体の音量差のダイナミクスのどちらかだったのが、今回はスピーカーが増えている分、よりダイナミクス幅が広がったと感じていて。ライブっぽいなと思ったら急に後ろからコーラスが出てくるというように、ビックリ加減のダイナミクスを増やせるなというのがすごくあったので、通常のライブではいない位置にコーラスやピアノを配置していることを楽しんでもらえるような仕掛けを使いました。

――楽器の使い方でいえば、3曲目の「Migratory Bird」が個人的に好みで。アコースティックギターとかの空間的な鳴らし方や、バンドとして空間オーディオをこう使うんだみたいなのを感じられました。ほかにも4曲目「Euphoria」においてギターとピアノが左右から360度に広がっていく感覚もすごいなと思いました。

井上:あれは全部ピアノなんですよ。アップライトピアノにフェルトを敷いてミュートしたうえでワウをかけているんです。そういう形でピアノを使ったのは、今回の作品のテーマが「自分たちとして無理をしない」「肩の力抜いて作る」だったからで。WONKはこれまで「この音が必要だね」となったらその音を入れた方がいいという考え方だったのですが、今回は自分たちでできないことはやめておこうという考え方で作っていて、僕がレコーディングでは主にギターを弾いてるんですが、ああいうワウのかかったギターをベースと同時に弾くことは絶対に無理なので、コンセプトが破綻しているから違うなと。それ以外の方法として、江﨑がポストクラシック文脈の作曲を研究するなかでフェルトとアップライトピアノでこういう音が出せることを教えてくれて、それなら実現可能だと思ってそのような音作りに着地しました。

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