空間オーディオを『ポケモンGO』的アイデアでもっと身近にーー“音のAR”をつくるスタートアップの挑戦
空間オーディオに対応する作品やアプリが急速に増えている。
サブスクリプションの普及で音楽の楽しみ方がデジタル化する中、Appleがドルビーアトモスに対応した「空間オーディオ」を始めたことは大きな出来事だった。ステレオと比べ、圧倒的に臨場感と没入感の高い再生体験を実現する空間オーディオは、最新のAirPodsやBeatsヘッドフォンを愛用する音楽リスナーが好きな作品やアーティストをサブスクでより深く楽しめる新しいフォーマットだ。そして空間オーディオは、アーティストやクリエイターにとって、新しい創作の手段になりつつある。Official髭男dismやGLAYなど、日本人アーティストの作品数も徐々に増えているが、今後は、音楽だけでなく音声コンテンツや映像作品、デジタルアートでの対応にも期待が高まる。
こうした変化のなかでいち早く動き出した企業が日本にある。東京のスタートアップ、Kalkulが、iOS向けに空間オーディオアプリ「KALKUL AURA」をリリースした。AURAはAirPods ProなどのApple製イヤホンに連携して、自分の身の回りに最適な再生環境を作ったり、アーティストが生成する「音のAR(拡張現実)」を体験できるテクノロジーを導入した無料アプリだ。AURAは先日、Spotifyを空間オーディオ環境で再生できるアップデートも行った。AURAアプリが目指すビジョンや、Kalkulが考えるオーディオコンテンツやデジタルコンテンツの未来像について、Kalkul共同創業者のBartek KolaczとMehdi Hamadiに話を聞いた。(ジェイ・コウガミ)
アーティストの作品と都市や場所を繋ぐ、テクノロジーとしての空間オーディオ
ジェイ・コウガミ(以下、ジェイ):KALKUL AURAアプリの話に入る前に、Kalkulの起業と、2人の経歴を聞かせていただけますか?
Bartek Kolacz(以下、Bartek):僕はドイツ出身で、Mehdiはフランス出身です。僕は小さい頃から数学が好きだったので、プログラミングやシミュレーション仮説、リアルとバーチャルの融合といった考え方が好きでした。映画『マトリックス』には影響を受けました。ドイツの大学で、メカトロニクス(電子機械工学)を専攻して、卒業後はプログラマーになりました。とあるドイツのスタートアップに転職した時、横浜で働く機会を得て思い切って来日しました。以来、日本で暮らしています。Kalkulの前は、東京の知的財産権(IP)専門の法律事務所でテクノロジー関連の特許を調査する仕事をしていました。社名のKalkulはドイツ語の「計算(Kalkül)」という単語から名付けました。創業者の僕たち2人に影響を与えた数学や論理学に、ゲーム要素や意外性を加えて作った造語です。
Mehdi Hamadi(以下、Mehdi):僕はフランス出身のエンジニアで、7年前に来日しました。大学では電子工学と生物学を専攻しました。修士号を取得する際、慶應大学で2年間、「ブレイン・マシン・インターフェース(脳の信号をシステムが読み取り、ロボットや機器を操作する技術)」を研究するため来日しました。研究生だった時にBartekと知り合いました。出会った当時からお互いに探究心が強く、デザインや製品開発の話で盛り上がり、二人でモノづくりの会社を作ろう、と決めて起業しました。
ジェイ:AURAアプリの開発は、どこからアイデアが生まれましたか?
Bartek:アプリを開発する前、Kalkulは2016年に、カスタム・ワイヤレスイヤホンを作ろうとしていました。当時は「音のAR(拡張現実)」に対応するイヤホンを目指していました。2016年のイヤホン業界は、アップルがAirPodsを発売したばかりで、ようやくワイヤレス化やノイズキャンセリングが流行り始めたころでした。当時は、空間オーディオや立体音響を再生できるイヤホンやヘッドホンは先駆的でした。
Bartek:2年ほどかけて、プログラミングからチップ調達、アプリ開発などを行い、プロトタイプを作りました。ですが、製品化に目処が立ちそうになった頃、2019年にAirPods Proが発表されました。あの製品を見た時、「ああ、先に製品化されたか」と感じました。それがキッカケで、イヤホン開発は諦めました。
Mehdi:AirPods Proはまさに私たちが作ろうとしていた技術を積み込んだデバイスですよ。最強のイヤホンですね。
ジェイ:ARアプリ開発にピボットするのは難しくなかったですか?ハードウェアからソフトウェア開発となれば、必要な専門技術も変わってくるわけですから。
Mehdi:僕たちが幸運だったのは、イヤホン開発の過程で、サラウンド技術やノイズキャンセリング、3Dオーディオなど様々な音響技術に順応するARオーディオアプリも同時に開発していたことでした。アプリ開発へのピボットを決めた時、すでにAirPods Proなどの高性能イヤホンで利用できるアプリの基礎がありました。そこから「KALKUL AURA」アプリが生まれました。
ジェイ:AURAアプリの特徴を教えてください。どんな音響体験ができますか?
Bartek:私たちのコンセプトは、サウンドコンテンツのAR化です。ノイズキャンセリングとは逆の考え方で、AirPods Proでいうところの「外部音取り込み」機能を活用した再生体験です。例えば、ノイズキャンセリングをオンにしていると、散歩中や自転車に乗っている時には、周囲のノイズや音を遮断してしまいます。私たちのビションは、音や音声、デジタルコンテンツが再生環境と融和して自然に溶け込んでくる、リアルとデジタルが融合した空間オーディオ体験の日常化にあります。
Bartek:AURAアプリの特徴は、街中に配置された動画や音声コンテンツをアンロックできたり、撮影したり、シェアできるインタラクティブなコンテンツにあり、僕たちはこれを「ホログラム」と呼んでいます。ユーザーが音楽を再生しながら街を歩いていると、没入感ある新しい音や音声コンテンツ、メディアコンテンツがイヤホンに流れてくるコンテンツ体験を提供しています。また、街中や建物、道路などのリアルな空間にアプリをかざすと、ミュージシャンが配信する音声や動画などのARコンテンツが体験できます。
ジェイ:AURAアプリを立ち上げると、設定に手間をかける必要なく、AirPods Proとすぐに連携しますね。
Mehdi:まず、AURA開発では、ミュージシャンや開発者仲間に欲しい機能をリサーチしました。その時に多かった意見は、手持ちのスマートフォンとイヤホンが連携する、インタラクティブな音響体験を配信できたり作れるアプリが欲しい、というものでした。特別なイヤホンや再生デバイスを持っている人は少ないですから。
ジェイ:AURAアプリのもう一つの特徴は、音楽やメディアアートに携わる先進性高いアーティストやクリエイターと連携したコンテンツ配信かと思いますが、どのような開発経緯がありましたか?
Bartek:音楽中心のコンテンツを制作する理由は、優れたアーティストやクリエイティビティを際立たせたいからです。アーティストとアートは、都市や日常生活に必要不可欠な存在です。そして、空間オーディオやARコンテンツは、人をアート作品の世界観に惹き込む意外性や驚きを与えてくれます。例えば、渋谷を歩いている時、街中に流れる定型的な音声アナウンスは聞き流してしまいますが、アーティストが登場するホログラムやARコンテンツを体験する方が、アーティストや作品、メディアと空間を共有している感覚が高まるはずです。
Mehdi:AURAは「音のストリートアート」とも言えるかもしれません。アーティストの作品と、都市や場所とを繋ぐ役割をアプリを通じて実現したいです。
ジェイ:これまで、どのようなアーティストや作品とコラボレーションしてきましたか?
Bartek:渋谷で開催された、電子音楽とデジタルアートのフェスティバル「MUTEK.JP 2021」とのコラボレーションが実現しました。フェス会期に合わせて、AR体験「Urban Sound Galley」をKalkulとMUTEKに参加するアーティストで共同制作しました。Yuri UranoやSaskiaといったアーティストの「ホログラム」を宮下パークや代々木公園に展開しました。MUTEK.JPに参加するアーティストの未発表音源を使ったメディアコンテンツも、渋谷周辺に設置しています。フェスの参加者とアーティスト、アート作品との新しいインタラクションを実現しています。
その他には、日本のエレクトロニックアーティストとコラボレーションして、AURA用に音や映像のARコンテンツを開発しています。先日、アーティストのmachinaのアルバムプロモーション施策として、アーティスト本人が登場するARホログラムを開発しました。渋谷周辺を散策しながら、AURAアプリでアーティストが作ったホログラムが体験できます。
ジェイ:AURAでは最近、Spotifyを空間オーディオで楽しめる新機能を追加しましたね。
Mehdi:10月にAURAアプリをアップデートし、「Spotify Spatial Audioプラグイン」を実装しました。AirPods ProやAirPods MaxとAURAアプリを使うことで、Spotifyで配信されている楽曲を空間オーディオで再生できます。聴く人一人ひとりの好みに最適化された、パーソナルな再生環境を作りたかったのです。空間オーディオをカスタマイズできる3Dサウンド設定も加えました。「OPEN」「ROOM」「STAGE」の3つのモードが設定できます。アップデートをリリースしてから反響を頂いています。
Bartek:好みの音楽に個人差があるように、再生環境もパーソナル化できる時代が来ています。Appleが空間オーディオで実現しようとしていることも、視聴体験のパーソナル化です。AURAのSpotifyプラグインは、パーソナルな体験にインタラクティブ性を加えて、再生環境を自らが設定できるようにしました。
ジェイ:AURAアプリ開発のインスピレーションとなった出来事や体験はありましたか?
Mehdi:「ポケモンGO」の影響は大きいですね。ポケモンGOユーザーがアプリで遊ぶ目的はデジタルコンテンツ収集ですが、ユーザーが街や近所を散策したり、遠出したり、リアルな世界と連携して、身の回りの環境をもっと知りたい、という探究心を掻き立てるゲーム性が素晴らしいですね。
Bartek:AURAアプリは立体音響アプリですが、ゲーム要素も組み込んでいます。ポケモンGOのように、散歩しながらARコンテンツを探せます。作品を再生しながらARコンテンツを獲得していく散策体験は、ユーザーと音楽、アーティストとの繋がりを深めてくれる体験だと考えています。