山田健人が水カン×yahyelコラボMVをスマホ一台で全編撮影 “デバイスとクリエイティブ”の関係性を聞く
映像作家として宇多田ヒカル、Suchmos、米津玄師などのMVを手がけ、yahyelではVJとしても活躍する山田健人(dutch_tokyo)が、水曜日のカンパネラとyahyelのコラボ楽曲「生きろ。」のMVを監督した。今回の映像も彼らしいエッジのある映像表現に仕上がっているが、なんとこのMVはGoogleの最新スマートフォン『Google Pixel 3』一台で全編撮影されたものなのだという。
映像を見る限り、スマートフォンで撮影したとは思えないクオリティの同MVは、どのようにして生まれたのか。山田を直撃し、その制作背景や彼の考える“デバイスとクリエイティブ”の関係性について聞いた。(編集部)
“スマホならでは”のギミックを使わない
ーー以前のインタビューで、テクノロジーと機材ベースで物事を考えることはないという趣旨の話をしていたので、そういう意味で今回の「生きろ。」で全編Google Pixel 3を使って映像撮影をしたのは、山田さんにとっても新境地といえるのでは?
山田:確かに、前回はそういう話をしましたね。でも、今回は入り口こそ違いますけど、考え方はそんなに変えていません。いつも通り考えて撮った映像だけど、撮った機材が違うだけというか。こうしてお話ししている時点では編集中の段階ですけど、今の時点でいつも通りかそれ以上という手応えがあって、自分でも驚いています。
ーー確かに、カラフルなストロボを焚いているのにハッキリと色味が出ていたり、とてもスマホのカメラとは思えません。いつも通りのやり方というのは、山田さんが監督を務めるMVの特徴でもある“人を撮る”ことでしょうか。
山田:そうです。今回も人を撮るという手法は変えていませんし、曲から受けたインスピレーションを形にするという考え方も同じです。何も言わなければ、スマートフォンで撮ったとは誰も感じないほどのクオリティだと思います。今回のテーマには“日本の社会性”みたいなものも大きく絡んでくるので、スマートフォンで撮ることは大きな意味もあります。日常的に持っているもので、「日本ってこうだよね」というような映像と曲を表現したことは、作り手としても意義のあることだったなと。
ーーその“曲から受けたインスピレーション”は、どういうものだったんですか?
山田:日本って小中高、あるいは大学生くらいまで勉強して社会人になって、そこから昇進して家庭を持って……という多くの人が歩む人生のレールのようなものに乗るべきという思想が、他の国よりも強い気がするんです。みんなで足並みを揃えるのを良しとして、出る杭は打たれる、ある種、全体主義的とも言えるムードが漂っているなかで、そこからはみ出る決断をすることはすごく勇気のいることで、それを肯定すべきだと思うんですよ。楽曲は“線路に飛び込むこと”が、その人が人生で初めてする、“はみ出ること”への大きな決断だったんじゃないか、と感じたものとして描きましたけど、MVでは曲の根幹にあるそういうメッセージを汲み取って、もう少しポジティブに普遍化・抽象化して映像にしようと思いました。
ーー曲の根幹にあるテーマであり、タイトル自体が持つ「生きろ。」という部分にフォーカスを当てたと。
山田:そうですね。人が死ぬという描写もないですし、冒頭の歌詞は〈あの日新宿駅で朝の光が血の海を照らした〉とありますけど、血の描写も新宿駅も出てきません。
ーーオブジェクトとして新宿駅は出てこないけど、東京タワーは出てくるという描き方も気になりました。なぜ新宿駅は使わず、東京タワーを使おうと思ったんですか?
山田:東京というものを描くときに、世界中の人が考えるシンボリックなものを一つ挙げるならこれだろうと。あと、MVでは、東京タワーの周りに崩れたビルがあって、東京タワーだけがすっと立ってるようなセットにしました。
ーー山田さん自身はこれまで水曜日のカンパネラのMVをいくつも手がけてきているわけですが、コムアイさんの被写体としての魅力についても伺いたいです。
山田:彼女には色んな魅力があると思っていて、映像や写真でも、撮る人ごとにそれぞれの色が出ているように感じるんです。身近な女性っぽく撮られているものもあれば、奇抜なイメージのものもある。その振れ幅の広さが魅力のひとつでもあると思うんです。でも、僕の中では「不可侵さ」がある人だと思っていて。「かぐや姫」のMVや石巻のドキュメンタリーもそうなんですけど、身近には感じないが、遠すぎもしない、手で触れることはできない、というある意味カルトっぽい神々しさをまとった魅力があるのかなと。普通に話してても、ちょっとよくわからない部分のある面白い人なんですけど(笑)、彼女に「こうなんだよね」って言われたら、ちょっと信じちゃうみたいなところがあるんです。
ーーその視点から山田さんが撮った映像を振り返ると、たしかに不可侵さというか、神の依代になっているシャーマン的な写り方をしているように見えます。
山田:ああ、シャーマンとか呪術みたいな言葉はすごくしっくりきますね(笑)。
ーー撮影に関しても掘り下げていきますが、今回の場所はひとつの倉庫を使ってそこだけで撮影したとか。
山田:普段の撮影で使うものよりは狭い場所なんですけど、最後のシーンーーエキストラとしてサラリーマン風の男性が40人くらい出てきて円になる画が「撮るぞ」と決めていた構図なので、そこに合わせてロケハンしていたんです。倉庫って普通、長細くて奥行きがあるものなのですが、探していたのは正方形に近い場所でした。どのアングルで切っても奥行き感が一緒になることが大事だったんです。
ーー限られたスペースかつ正方形で、奥行きを同じように撮るとなると、やはり小回りも効くカメラじゃないと撮り辛かったわけですか。
山田:それは間違いなくあると思います。人と人の間を縫ったり、東京タワーとコムアイと池貝とエキストラの間って、3〜4歩分の距離しかなかったので、レールを敷くのも難しく、クレーンを使う広さでもなかったわけなので、Google Pixel 3で撮ったからこそできた構図でしたね。そういう意味ではかなりメリットがありました。どうしてもスマホで撮るとなると、粗さだったりブレ感を出して“スマホならでは”の映像を撮りがちじゃないですか。でも、今回はそういう“あえてのギミック”を使いたいわけではなかったので。
ーー質は落とさないまま、小回りが効く撮影機材としてGoogle Pixel 3を使ったと。
山田:単純に大きな機材だと、カメラを一度振るのにマンパワーが必要なんですが、Google Pixel 3だと手首のスナップでアングルを変えられますし、機動力の高さでは他のカメラとは群を抜いて差がついていると思います。あと、最後のカットも360度動き回っているんですが、普通の有線カメラだとケーブルが写り込んでしまったり、撮影隊の逃げ場がないんですよ。今回は写り込まない場所にモニターを設置して、Chromecastで飛ばして映像を映してと、Googleのサービスとも連動しながら進められたのも大きかったです。
ーーしかもこれ、複数台ではなく1台のGoogle Pixel 3で撮影してるんですよね。
山田:基本的に同時に回ってるのは1台ですね。
ーー今回のプロジェクトを通じて、Google Pixel 3のような従来カメラとして使われていなかったものを使う、という選択肢も生まれましたか?
山田:向き不向きはあると思うんですけど、軽かったり起動が早かったり小回りが利いたりと、今回でかなりコツをつかんだ自信があるので、自分の表現に必要な手段となれば、躊躇なく使うつもりです。そこに耐えうるスペックだと思うので。
ーー話を戻すと、たしかに“あえてのギミック”としてスマホで映像を撮るケースは、どんどん増えてきた気がします。いわゆる人間主観でのPOVショット(Point Of View Shot)を撮るときに、ハンディカムよりスマホのカメラがリアルな表現に近くなったといえるでしょうし、ベントレーのCMもスマートフォンで撮影されていました。日本でも『シン・ゴジラ』でスマホを使ったカットが差し込まれたり、雑誌の表紙がスマホで撮った写真だったり。そういった“スマホだけで成立するクリエイティブ”が出てきていることに対して、いち映像作家としてはどう思いますか?
山田:Google Pixel 3のように日常的に人々が持ってるものがプロユースに耐えられるスペックに追いついてきてるということは、映像文化の発展においてはかなりポジティブなものだと思います。今の時代、SNSでもなんでもスマホで撮ってアプリで加工して写真なり動画なりをアップしていますが、自分の撮ったものをそのまま上げずにフィルターを選んだりする行為って、ある意味モノ作りの一歩目じゃないですか。10年前は、その色ひとつ変えるのにパソコンに取り込んで、専門的な知識で手を加えなきゃいけなかったわけですから。
ーーモノ作りのハードルが下がることは、文化の発展においてはポジティブなことであると。
山田:そうです。ただ、それと同時に良いものをきちんと使うということが、逆にスマートフォンにすら求められていくぐらいのスペックになってきたのかな、とも感じました。音楽で例えると、100万円のギターを買ったからといって、必ず良い音が出るわけではないじゃないですか。きちんとしたものを使うだけなのと、表現としてきちんといい使い方ができているか別なので。
ーー使いこなせるかどうかはその人次第ですからね。クリエイターとしてやってる人たちにとっては、ある意味プレッシャーがかかるわけですか。
山田:間違いなくプレッシャーは大きくなりますね(笑)。だからこそ「本当に良いものとはなんなのか」が問われていく時代になっていくと思いますし、「映像は普通のシネマカメラじゃねーとダメだろ」みたいな考え方には固執したくないですね。あと、今話したことって逆の視点から見れば、モノの数だけがどんどん増えていって、100万円のカメラだろうと10万円のカメラだろうと、あるいはスマートフォンだろうと、どれで撮ってても意識しないで視聴する時代になるともいえるんですよ。そういった間口が広くなりすぎて文化としてのクオリティが下がる、という怖さもあるので、“きちんと使う”ことが僕の中では重要なんです。
ーーそういう意味では受け手の審美眼も問われる時代になってくるともいえますね。
山田:それは映像だけではなく、色んなジャンルにおいてそうかもしれません。AIが作った音楽も出てきているなかで、なぜ人間じゃなきゃいけないのか、という問いかけは作る側にも受け取る側にも生まれてきそうです。今のところは身体性を伴うものが人間にしか作れないとされているので、しばらくはそういったものの価値が高くなっていく気がします。