『黒牢城』荒木村重の人物造形に重なる黒沢清の人物像 “端正な時代劇”の裏にある真の試み

前衛的な作風によって、国内外で高く評価されてきた黒沢清監督。巨匠と言えるほどのキャリアに達したいま、自身初の時代劇に挑んだ一作が、直木賞をはじめ数々の賞を受賞した、米澤穂信の同名ミステリー小説の映画化『黒牢城』である。公開中に立ち寄った映画館では予約で満員となっていた。
物語の舞台は、織田信長に叛逆した荒木村重が籠城する有岡城。その地下牢に囚われた黒田官兵衛を、現場に出向かずに事件の謎を解く「安楽椅子探偵」に見立て、城内で起きる不可解な事件を解決していくという、歴史物とミステリーをかけ合わせた異色のサスペンスが、本作『黒牢城』だ。
現代の都市の片隅に潜む不穏さや、打ち捨てられた廃墟などを舞台に、個性的な人間ドラマを描くことが多かった黒沢監督が、歴史時代劇ジャンルという制約のなか、まさに手枷を装着しながらの演出を、本作ではおこなっている。そこには、これまでの監督作に見られた前衛的な映像表現や、極端な長回し、空間そのものをアーティスティックに脱構築していくような手法は、ほぼ封印されている。一見すると、伝統的な大作主義に則った“普通に観られる端正な時代劇”の顔をしているのである。
だが、突出した部分が目につきにくく、“中庸”ともいえる今回の律儀な演出スタイルの奥底には、黒沢清監督ならではの、人間の内面を解体していくドラマと、現代的なテーマが、確かに織り込まれている。そして、さらにその裏には、監督自身の実感がこもった核心があるのではないか。ここでは、作品の特徴を追いながら、そこで真に描かれたものが何であったのかを考察していきたい。
※本記事では、映画『黒牢城』のストーリー展開を明かしています
黒沢監督はこれまで、商業的な題材や企画を何度も手がけているが、それでもどこかで、秩序立った作品世界を破壊し、解体していく展開が用意されていた。そしてファンはそこにこそ充実を感じていたはずだ。今回は時代劇ミステリーという、より多くの観客が広く楽しめる題材で、これまでになくオーソドックスな仕上がりに落ち着いている。小津安二郎監督や鈴木清順監督のような、建物への極端なアングルも選択せず、それどころか黒沢映画の代名詞とも言える不穏なロングショットや長回しさえも抑制されている。
要所で手持ちのカメラを利用しているのは印象的だが、画面内の美術と人物たちは、基本的には“時代劇”として計算されたかたちで配置され、カットもまた短く積み重ねられてゆく。役者たちの時代劇風の“いかにもな”演技が、そのまま許容されている点も、ある種の中庸さを際立たせているのだ。そこには、時代劇や歴史ものへの新しい視点を見出すことは、なかなか難しいといえよう。
また、本木雅弘が演じる荒木村重の苦悩や、脇を固める武将たちの立ち振る舞いは、これまでの黒沢作品の登場人物たちがまとっていた、生気を抜かれたような異様さ……つまりは“哲学的ゾンビ”の様相を呈しているわけでもない。黒沢清作品の奇妙さを逆に破っていくほどに、時代劇やミステリージャンルの約束事に身を委ねた、お行儀の良さこそが、本作の大きな特徴なのである。
天正六年、織田信長に叛逆し有岡城に籠城した荒木村重は、説得に訪れた黒田官兵衛(菅田将暉)を地下の土牢に監禁するところから、本作の物語が動き出す。毛利の援軍を待ちながら籠城戦を続ける城内では、何故か雪の密室殺人や首のすげ替えといった、不可解な怪事件が次々と発生。疑心暗鬼に陥った村重は、地下牢へ降りては優れた頭脳を持つ官兵衛に謎解きを依頼する。官兵衛の思考によって事件の真相が暴かれるたび、城内を覆うものの正体や、村重の欺瞞が少しずつ浮き彫りになっていく。
原作どおり、戦国の知恵者・黒田官兵衛を安楽椅子探偵の役割に据え、次々に難題が降りかかり対処を迫られる村重が、官兵衛に知恵を求めて牢を訪ねるという構成。鎖に繋がれて監禁される者というモチーフは、黒沢テイストが希薄ななかで、最近セルフリメイクされた『蛇の道』(1998年)を想起させる部分だ。
基本的に一定の節度を持った硬派な演出で、物語の分かりやすさを重視したオーソドックスな撮り方に終始しているとはいえ、サスペンスが盛り上がる箇所においてをも、あえて同様のスタイルを堅持しているところは、黒沢清監督らしい、一種の反逆性を感じる部分ではある。『カリスマ』(1999年)で突如身体に剣が突き立てられるような描写や、『回路』(2001年)で人間が高所から飛び降りる描写などのように、異様なものをあえて日常的な演出から逸脱せずに見せるという試みだ。とはいえ、グロテスクになり得る描写に気を遣っているところが、本作らしいメジャー作品としての手つきだろう。
一定の異化効果は、確かに発揮されている。しかし本作は、時代劇という枠組みそのものを壊してほしい、黒沢清独自の視点で描いてほしいと願う観客にとっては、肩透かし感はあったかもしれない。だがそれは現実的には難しいといえる。時代劇に新しい描き方を加えるということは、歴史への深い知識と、そこから醸成される個人的な歴史観、あるいは世界そのものを創造するような特性が必要となってくる。そういった“ワールド・ビルディング(世界構築)”をやり遂げたのは、たとえば宮﨑駿監督の『もののけ姫』(1997年)である。























