『素晴らしき新世界』『地獄に堕ちるわよ』に共通点? “悪女”がNetflixで人気の理由

本作がスタートする1週間ほど前、Netflixの日本オリジナルドラマシリーズ『地獄に堕ちるわよ』が配信された。日本一有名な占い師・細木数子の波乱の半生を描いた伝記ドラマだ。細木数子という人間の描き方やキャストに関する指摘など、実物を知る日本人にとっては気になる点も少なくなかったが、人気は根強く、今なお日本の「今日のシリーズTOP10」にランクインしている。そして興味深いことに、韓国でも静かな人気となっているのだという(※)。

『地獄へ堕ちるわよ』と『素晴らしき新世界』はともに人を惹きつける理由に共通するものがあるのではないか。もちろん前者は実録もので後者はラブコメディであり、何よりも実在の人物とフィクションという大きな違いがある。『地獄へ堕ちるわよ』の細木数子については毀誉褒貶相半ば、いや、テレビでの振る舞いや週刊誌のゴシップ記事をリアルタイムで覚えている日本の大衆としては“相半ば”というよりもネガティブなイメージのほうこそ強い。しかし前提として本稿では、実社会での細木数子本人がいかなる人物であったかに目を向けるのではなく、『地獄へ堕ちるわよ』が描いた細木数子が一体どのような表象を見せ、そこに惹きつけられた人々の心理を読み解いてみたい。
ドラマの中での細木数子(戸田恵梨香)は、幼い頃は終戦後の混乱で貧しく、ひもじくてみじめな思いをしていた。ただただ生きることに精いっぱいで教育も受けられず、ゆえに貪欲な向学心を持つと同時に学歴コンプレックスを持つことになる。何よりも混乱の時代に苦労をし、人に騙されたことから「人に騙される前に騙すこと」「人を信用しないこと」が習い性になった。しかし人を簡単に信用しないことの裏返しで、だからこそ「この人は」と信じた人に没入し、2度も男性に騙されることになる。

あらすじで書くとこのようになるが、細木数子本人が苦労の反省を自伝的に語るパートと、週刊誌や周辺の関係者による非道な一面の暴露を、第三者である作家・魚澄美乃里が追っていくいう構成のため、結果的には真実が分からない作りとなっている。分析によると韓国では「どこまでが実話で、どこからが創作なのか」という、こうしたドラマの作りそのものに関心が向けられていたそうだ(※)。細木数子が「どんな人物だったか」を明らかにするのではなく、「どんな人物として描きたいか」に焦点を当てるならば、たとえば終盤、美乃里が書き上げた細木の小説を「私を貶めている」と激高して突っぱねるという我々視聴者がよく知る細木の“悪女”的な姿よりも、小説を読みながら自身の反省を振り返り人知れず号泣する弱々しい細木の姿にこそ、制作陣の意図を感じられるのだ。
つまり、細木数子が自身の脆さを隠すために着た鎧が“悪女”であったようにドラマは描くことで、その“悪女”を求める観衆と自己に引き裂かれる一人の人間を映し出そうとしたのではないか。ドラマでも描かれる(また我々も知る)ように、細木数子はその後エンタテインメントの寵児としてメディアを席巻していき、大衆が求める“悪女”の鎧を、一層脱ぐことができなくなっていく。細木は最後の恋人として登場するヤクザの堀田を、合間に凄絶な事情がありつつも最期を看取ったのだが、それを小説に書くことは許さなかった。感情に脆いごく普通の人間の一面があるという実に平凡な事実を、自分の“悪女”キャラに惹きつけられている大衆が許さないのだと、細木は知っていたのではないだろうか。あくまでもキャラでしかないにもかかわらず、その“演技”は自身をも食い尽くしてしまうのだ。

偶然だが『素晴らしき新世界』でも、タイムリープしてきたばかりの姜禧嬪が言い放った毒舌が「悪女ミーム」としてブームになる描写がある。そうして都合よく“キャラ”として搾取されてしまう悪女を背負いながらも、姜禧嬪は他者がお仕着せる“悪女”を脱ぎ捨て、「素晴らしき新世界」で新しく生きようとする。『地獄に堕ちるわよ』同様に“悪女”というキャラクターの欺瞞性をはからずも暴いた本作だが、実録ドラマの中の女性主人公として細木数子ができなかった人生を、王道韓国ドラマの姜禧嬪/ソリはより自由で爽快に生きていこうとする。“悪女”という虚構で響き合うこの2本は、ゆえに女性ドラマとして大きな価値のある作品なのである。
参照
※ https://sportsseoulweb.jp/star_topic/id=148496





















