杉咲花の変わり続ける姿が愛おしい 『冬のなんかさ、春のなんかね』の思考を巡る幸福な時間

『冬のさ春のね』の思考を巡る幸福な時間

 『冬のなんかさ、春のなんかね』(日本テレビ系)を、主人公・土田文菜(杉咲花)と同じ「小説家」に対する「読者」という関係性を軸に考えることから始めてみたい。とはいえ本作は小説ではなくドラマだから、作り手と私たち視聴者との関係性である。

 第1話の副題は、「誰かにとっては特別な」だった。つまりこの時点で視聴者は、作り手の「この作品は、万人に向けてではなく、この作品が必要な誰かに向けて作っていますよ」というメッセージを受け取っている。それに対して、特に第1話で呈示された杉咲花演じる「男性たちを翻弄する女性」土田文菜というキャラクターを受けて、「私はその“誰か”ではない」と敬遠した人もいれば、「私にとっての特別だ」と確信した人もいるだろう。あるいは、その“誰か”でありたいと願うように見つめる人もいるかもしれない。

 それはどこか、第4話で文菜が、学生時代の恋人であり、小説を書くきっかけを与えた人物・小林二胡(栁俊太郎)に対して「すごく残酷なことを言う」と前置きした上で、「二胡の小説は、私にとっても二胡にとっても必要のないものかもしれない。けど、それに救われる人がいるんだったらさ、それはものすごく価値があることなんだと思う」と言うことと密接に繋がっている。

 誰かにとっての「特別」、その人にとって必要か、そうでないか。その取捨選択の間で双方の心に生じる痛み。それはどこか、本作が登場人物たちの恋愛を通して繰り返し描いている痛みに似ている。文菜と自分自身とを無理矢理重ねて考えようとしてみなくても、私たちは既に、作家(作り手)と読者(視聴者)という関係性において、本作の「特別」を巡る攻防に巻き込まれていると言えるのではないか。

 第1話冒頭での文菜(杉咲花)と佐伯ゆきお(成田凌)の出会いの場面において文菜は「コインランドリー」を「必要としない人の方が多い場所」だと形容する。「だから好き」だと言う彼女は、コインランドリーを必要としない「大抵の人」とは少し違う、特別な存在であることがわかる。

 そんな彼女は、出会ったばかりのゆきおに「佐伯さんもコインランドリーが必要ない人(=「大抵の人」)だ?」と問いかけ、どちらかと言えばそうだと答えた彼を見つめ、少し考える素振りを見せる。きっとその無言の逡巡は、後に彼女が言う、自分にとって「好きにならない人」である彼を、好きになろうと決めた、極めて残酷な時間のような気がした。

 本作にはそんな、恋愛というものにつき纏う無自覚な罪、つまりは「誰かが誰かを選ぶこと/選ばないこと」の残酷さが、至るところに散らばっている。例えば、学生時代を振り返る第4話の二胡との別れ話において、「恋人がいるっていう状態が向いてない」と言う二胡に対し、文菜は「それの外側になれなかった」ことを悲しむ。鮮烈だったのは、第5話と第6話の対比である。第5話で佃武(細田佳央太)が文菜を抱きしめながら「ゼロ距離」にいるはずなのに「遠い」と嘆いた時、佃が感じていただろう文菜と自分の心の距離。それは、第6話冒頭の文菜が見ている「あくまでも私の想像の世界」である「間違いなく私が過ごしたかった瞬間の風景」と彼女の間の距離と同じではないか。どちらも文菜が好きだった人・田端亮介(松島聡)が言うところの「相手が自分のことを好きだからという理由で人を好きになることはない」ということの美しくて残酷な証明だった。

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