『エディントンへようこそ』が映し出す2020年の醜悪さ アリ・アスターによる忘却への抵抗

『エディントンへようこそ』は西部劇でもある。パンデミック禍におけるソーシャルディスタンスの距離は、そのままガンマン同士が対峙する決闘の間合いと重なる。銃はスマートフォンになり、戦いを見守る立会人は画面の向こう側にいる顔の見えない不特定多数だ。冒頭、暗闇の中で光るスマートフォンの画面を克明に捉えたダリウス・コンジの撮影を見れば、本作が「現代の西部劇」として、いかにスマートフォンという「銃」を真正面から撮ろうとしているかがわかる。
2007年にiPhoneが発表されて以来、映画はこの「光る板」をどう撮るかという試行錯誤を繰り返している。スマートフォンを撮るということは、言うなれば「カメラでカメラを撮る」行為であり、「光の芸術」である映画のスクリーンの中に、さらに「別の光を放つ画面」を持ち込むという厄介な問題を孕んでいる。その困難から目を背けたい映画作家は、物語の舞台を2007年以前に設定するか、スマートフォンの画面を極力見せず役者の表情で処理するか、あるいは劇中で思い切って端末を破壊させることで、この問題を回避してきた。
だが、『エディントンへようこそ』は、スマートフォンの画面を撮ることを恐れない。YouTube、Facebook、Instagram、Twitter(当時はまだ青い鳥がいた)が、スクリーンに堂々と映し出され、電話がかかってくれば、それまで見ていた画面を遮るように、同僚の名前「Guy」が執拗に何度も表示される。アリ・アスターはスマートフォンを撮ることが、欲望や醜さを映すことと不可分であると自覚している。俳優の顔とカットバックされるスマートフォンの画面には、あらゆる企業の思惑が映り込み、消費者の欲望を絶えず刺激する。アリ・アスターはそれを隠そうとしない。なぜなら、その醜悪さを直視することが、2020年という時代に向き合うことだと知っているからだ。
一方で、物語が終盤に近づくと、スマートフォンは本物の銃へと変わっていく。アリ・アスター作品では、災厄は地下ではなく「屋根裏(頭上)」からやってくるが、本作でも同じく、遥か上空から「ある災厄」が降りてきて、ジョーはそれと対峙することになる。ジョーは射撃の名手、つまり、距離を正確に把握しながら、弾を対象に当てる能力に秀でているのだが、あるシーンでその技術を完全に放棄してしまう。暗闇に向かって闇雲に銃を乱射するその姿は、ソーシャルメディアにおいて、他者との距離(敬意)を失った言葉を放つ、現代人の映し鏡そのものだ。
本作は、ひとりのホームレスがエディントンの街へ歩いてくるところから幕を開ける。肉眼では視認できないウイルスや陰謀論とは異なり、彼の存在はそこにある。にもかかわらず、人々は彼のことを見ようとはせず、遠く離れた地域で起きた事件に端を発したデモにばかり目を向けている。ジョーもまた、街のために市長選に立候補するものの、自身の家庭内の不和さえ解決できずにいる。私たちはあまりに無力だ。しかし、スマートフォンと銃は、そんな私たちに力を与えてくれる。その錯覚こそが、2020年のアメリカにおいて「地獄」を生み出した元凶なのだ。
エマ・ストーンが演じるジョーのパートナーが、趣味で人形を作っているという設定は、ジョーが迎える結末において皮肉として機能している。人形に歴史は語れない。無力な私たちは、せめて歴史を忘れないでいたい。あの2020年の醜悪さに誠実に向き合えるのは、ホラー作家である自分の役目だと言わんばかりに、アリ・アスターはこの作品で、スマートフォンの画面を正面から撮ることで「忘却」に抵抗してみせた。
パンデミックで幕を開けた2020年代、ソーシャルメディアで続く終わりのない争いと、銃による悲惨な事件の数々を見ていると、私たちはCOVID-19よりも遥かに恐ろしいウイルスに感染したまま、未だ治っていないのかもしれないと、そう思わずにはいられないのだ。
■公開情報
『エディントンへようこそ』
TOHOシネマズ 日比谷ほかにて公開中
出演:ホアキン・フェニックス、ペドロ・パスカル、エマ・ストーン、オースティン・バトラー、ルーク・グライムス、ディードル・オコンネル、マイケル・ウォード
監督・脚本:アリ・アスター
配給:ハピネットファントム・スタジオ
原題:Eddington/2025年/アメリカ
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公式サイト:https://a24jp.com/films/eddington/
公式X(旧Twitter):https://x.com/A24HPS



























