『まどマギ』『グノーシア』『AYNK』などループもの再熱か “マルチバース以降”のリアリズム

『まどマギ』再放送などループものが再熱

ループものとマルチバース

 こうした「ループ」のモチーフとはことなるかたちで近年急速に増えつつある複数世界の描き方が、マルチバース(多元宇宙)である。これはインフレーション宇宙論から誕生した概念とされるが、そこでは無数の宇宙が同時に生まれ、それぞれで異なる世界が展開されている。マルチバースでは、こうした想像力を基盤としてさまざまな世界が展開されてゆく。「多世界解釈」と異なるのは、世界が無数に分岐するのではないということだ。マルチバース的な世界観は、登場人物たちの行動に関係なくあらかじめいくつもの世界が存在しているという考え方に近い。日本においては『ウルトラマン』シリーズが2010年代初頭に導入しているが、より一般に知られるようになったのは同時期の『アベンジャーズ』シリーズだろう。

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 以降、2020年代に入るとマルチバースは日本においてもさまざまな作品で採用されるようになる。『グリッドマン ユニバース』では本来マルチバースとして存在していたはずの『SSSS.GRIDMAN』の世界と『SSSS.DYNAZENON』の世界が一つの世界へ統合されてしまう事態(=ユニバース)が描かれた。より最近の例を挙げるならば『機動戦士Gundam GQuuuuuuX』がよいだろう。シュウジが言うように、本作の世界は、『機動戦士ガンダム』の世界で(シャアの死によって)ララァが絶望し複数の宇宙が生成されたことで生じた一つであると位置づけられる。こうした作品はまさに、マルチバース的な想像力に立脚している。

マルチバース的リアリズムの萌芽

 「ループ」と「マルチバース」は時期的に前後しているものの、単線的に変遷を語れるものではない。そもそもインフレーション宇宙論が提唱されたのは1980年ごろであり、また「ループ」というモチーフは『甘神さんちの縁結び』で見られたように今でもしばしば見られる。ただ、少なくとも「マルチバース」がループと同様に「複数の世界」を描く際用いられるようになってきたことは事実だろう。

 では「マルチバース」が用いられるようになることは、いったいどのような意味を持つだろうか。一つには、商業的な要請だと考えるのが妥当だろう。IP産業となりつつあるオタクカルチャーとマルチバース的な想像力は、複数の設定を矛盾なく展開できるという意味においてきわめて相性がいい。一つのIPを長期間駆動させるとき、スピンオフを含め異なる世界観で同じキャラクターを用いることは有効な手段の一つであるといえる(その意味では、先に挙げた『グリッドマン』シリーズを中心に展開が増えているPOP UP SHOPもまた、マルチバースと捉えられるのかもしれない)。『GQuuuuuuX』をはじめとした近年のリメイクや旧作の伸長も、この潮流の一つとして捉えることもできそうである。

 他方このことは、「ゲーム的リアリズム」と「マルチバース」の間にある微妙な距離を示しているようにも思える。「死」の複数性が、選択(=分岐)することの残酷さによって逆説的に「死」の重要性を描き出しうるということは、暗黙的に選択がなされることそれ自体、すなわちループを脱出するために何かを選びとることが前提となっている。そう考えたとき、マルチバースではむしろ個々の「死」は複数化されるのみで、選択(=分岐)することによって生じる重みが描けないことになる。主人公=プレイヤーの水準で選択することがない(正確に言えば、その選択について何かしらの責任を負うことがない)ことは、「ゲーム的リアリズム」が評価するような「ループ」のモチーフと「マルチバース」の違いを、そのまま映し出してはいないか。

 無論、これはマルチバース的な想像力を安直に批判しているのではない。おそらくマルチバースにはマルチバースなりの新たなリアリズムの描き方があるだろう。双方の想像力が入り乱れる現状は、ある意味で豊かな可能性に満ちているともいえる。『グノーシア』に再度立ち返るのであれば、「ループ」だけではやや説明がつかない部分が思い出される。というのも本作においては登場人物の追加があるからだ。第2話終盤で開始した二度目のループは、閉鎖的な宇宙船内という環境はそのままであるにもかかわらず、ループ以前から登場していた5人に加えて新たに2人キャラクター(しげみち、ステラ)が追加される。本作が「ループ」のモチーフのみならずマルチバース的な想像力を有しているかどうか、アニメ版においては少なくとも現時点では判断できない。ただこうした二つの想像力を架橋する可能性のある作品に、筆者はあらたなリアリズムの萌芽が宿っていることを期待したい。

参照
※ 東は『ゲーム的リアリズムの誕生』において次のように言う。「私たちは、一回かぎりの生を、それが一回かぎりではなかったかもしれない、という反実仮想を挟みこむことで、はじめて一回かぎりだと認識することができる。この条件は、人間の生の根底に関わるものであり、とくにポストモダン化やオタク化によって生み出されたものではない[…]。しかし、その変化が生みだした環境において、古くからある普遍的な感覚が、新しい表現に生気を注ぎこむことはありうる。筆者が「ゲーム的リアリズム」という言葉で呼びたいのは、そのような過程である」(181頁)。

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