『サブスタンス』が映す“まなざし”への吐き気と自傷 ショットで語る“本質”とは

本作の根幹として描かれる孤独と自傷

エリザベスはわかりやすく日々“Male gaze”(男性のまなざし)を受け、自分の見た目や加齢、存在そのものに対してネガティブなイメージを持たざるを得ない環境にいた。その有害な男性性についても描きつつも、映画『サブスタンス』の“本質”は「その男性のまなざしが埋め込まれた“私”の中で生きていくこと」について考えることだと感じる。というのも、散々気持ちが悪い男性がエリザベスの心を疲弊させていくものの、文字通り彼女の存在を脅かす真の敵はもう一人の自分……スーなのだ。
フレッドとのデートの準備があんなことになってしまったのは、フレッドが自分に何かを言ったからではない。自分の部屋から見えるビルボードに映るスー、つまり広告に映る女性の“イメージ”と現実の自分の乖離に悩まされたからである。愛されるためには若くて痩せていて綺麗でなければいけない。エアロビをクビになった経緯やハーヴェイが吐いた言葉が、彼女に強迫観念を植え付け、サブスタンスの注入に至った。そしてスーとして再び自己肯定感を高めることができても、エリザベスが抱える問題は解決できない。

何が入っているのかわからなければ、打った後どうなってしまうのかもわからないものを体に入れるなんて怖くないのか。毎回痛い思いをしなければいけないのに、なぜやめないのか。観客がどれだけわかりやすく問題点を見つけたとしても、エリザベスは止めることができない。彼女を止めてくれる周囲の人間もいない。この孤独こそが、男性のまなざしや業界が押し付ける美の定義に囚われた彼女を閉じ込める檻の役割を果たしてしまっているのだ。
もう一人のスーが“出産”されるシーンで、エリザベスの背中は何十センチも縫わなければいけなくなった。その縫い付けるシーンや、その後のペナルティによって部分的に老いてしまった身体がバキバキ鳴るシーンの痛々しさ。それらが、サブスタンスを摂取・継続する行為が自傷的であることを物語っている。そして本作にはそういった自傷があらゆる形で描かれるのだ。先に述べた選択的孤独も、自傷の一つとして映されているのが興味深い。また、「暴食」が自傷行為としてはっきり描かれていたことも印象的だった。

筆者自身も、コロナ禍のストレスで今考えると理解ができないレベルの暴食行為を繰り返し、15キロ体重が増加した。今思うと、あれは完全なる自傷行為だったことが分かるが、当時はそれが“ストレス発散”だった。人に会わない、会えない孤独が「会わないから見た目に気を使わなくてもいい」に慣れてしまい、暴食やセルフネグレクトを促進させた。エリザベスも、スーとして生きる人生を主体にし始めて、自分の7日間が終わるまで家から一歩も出ずにテレビを観て過ごしていたのが印象的である。自傷によるダメージは身体に蓄積されて、簡単に回復することができない。その状態で再び社会に向き合うことを余儀なくされ、また眼差しに晒され、自己価値を認識する力が弱まり、孤独を選び続けることになる。そんな悪循環を7日間の交代という形で本作は描くのだ。そして最終的にスーはエリザベスを殺す。しかし彼女たちは“ひとつ”の存在。生き残ったスーも、そのせいで身体が崩壊していく展開に。“自分を殺す”ことがまさに最大の自傷行為であることを物語っているのだ。
自明でも一番難しい「Take care of yourself」

エリザベスの孤独の問題性について先述したが、それでも彼女から自信を奪った根本的原因は社会や環境、まなざしだ。吐きそうになる言葉とイメージ、視線を浴びせられ、何度も「No」を突きつけられ、えずきそうになるところを様々な自傷行為を経てついに嘔吐に至ってしまった。それが最終形態「モンストロ・エリザスー」の誕生経緯である。スーでさえ、もっとかわいくいなければと強迫観念に駆られてしまったのだから、やはり“よりよくなろう”なんて気持ちは良くも悪くも際限がないことを思い知らされる。
一方「モンストロ・エリザスー」は、ようやく自分を愛でることができた。鏡に映る自分を愛おしそうに見たり、アクセサリーをつけたり、髪の毛を巻こうとしたりする。どんな見た目でも見た目に気を遣おうとすること、何より「自分が思う素敵な自分」でいようと努めることがどれだけ尊い行為であるかを、そこまでの映画の内容が表している。皆、彼女の様子が明らかにおかしいのに覆面だけを見て「かわいいかわいい」と褒めちぎる。しかし、“女性”を象徴するボディパーツである膨らんだ乳房がもげ落ちると、会場にいた男は「怪物だー!」と指をさした。そこからエリザベス、スー、モンストロ・エリザスーの血が会場にぶしゃぶしゃと降り注ぐ。その爽快感たるや。

そして映画は、“ブロブ”と化したエリザベスが自身の「ウォーク・オブ・フェイム」の星までだとり着き、溶けて消えて終幕するのだった。結局のところ、どれだけ美の定義を押し付ける社会やその構造が悪だとしても、“その中で私はどう生きるのか”、それが問題だ。本作を通して、それについて考え続けていくことこそ『サブスタンス』という作品の本質であり、その手助けとなるセリフをエリザベスとスーはそれぞれスクリーン越しの私たちに託している。
「Take care of yourself」
これはエリザベスとスーが自身のエアロビ番組の最後に、視聴者に向ける言葉だ。「次の番組まで自分を大切にね」と投げキッスをしてくれる。ハリウッドや芸能界に身を置かずとも、どんな職業でも見た目を気にせざるを得ない社会構造の中にいることくらい、私たちは知っている。「バランスが重要」という言葉も映画の中でも繰り返し言われていたが、「自分を大切に」とかそういう分かりきったことほど簡単なことではない。決められたルールすら自分の欲望を優先して守れない、そういった人間の弱さを『サブスタンス』はまざまざと見せつけるのだ。

自分に対して、ひいては他者に対してどのような言動の選択をとっていくのか。自分を大切にすることは、他者を大切にすることでもある。一方、「No」を突きつけるのは他者だけでなく自分自身でもあることに自覚的になりながらも、「自分を殺さない、殺させない」ためにどうすればいいのか。本作を通じて永遠に考えていかなければいけない問いに、悩まされる。
■公開情報
『サブスタンス』
全国公開中
出演:デミ・ムーア、マーガレット・クアリー、デニス・クエイド
監督・脚本:コラリー・ファルジャ
配給:ギャガ
アメリカ/142分/R-15+
©The Match Factory
公式サイト:https://gaga.ne.jp/substance/





















