『べらぼう』古川雄大演じる北尾政演=山東京伝は何者? “吉原を愛した男”の生涯を解説

NHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』(NHK総合)第15回では、武士で作家の朋誠堂喜三二(尾美としのり)が蔦重(横浜流星)に「そろそろ青本を一緒に作らないか」ともちかけた。そこへ登場したのが浮世絵師の北尾政演(古川雄大)。
「絵など女にモテるために描くものだ」とうそぶく政演。喜三二が吉原大好き「武士代表」ならば、政演は「町人代表」といっていい。彼は二度結婚しているが、二度とも吉原の遊女を妻としているのである。
北尾政演はこの時点ではまだ「絵師」として知られているが、こののち戯作者としても頭角を現していく。戯作者・山東京伝としても売れっ子となる彼には独特の遊女観があった。
遊女を娶る未来を予見した作品?

北尾政演こと山東京伝(以下、京伝で統一)は、江戸時代後期を代表する浮世絵師で戯作者である。
1761(宝暦11)年、深川木場生まれで蔦重より11歳年下。13歳のときに父・岩瀬伝左衛門が家主となって移り住んだのが京橋銀座である。当時の通称は「伝蔵」。京伝の名は「京橋の伝蔵」から取られたと伝わる。
京伝の弟は同じ戯作者の山東京山、17歳で早世した妹は黒鳶式部の名で黄表紙や狂歌を残している。
しかし1784(天明4)年、黒鳶式部が14歳のときに発表した黄表紙『他不知思染井(ひとしらずおもいそめい)』は、その内容から京伝作の可能性が議論されているという。
物語は、廓で遊ぶ五人男たちの中に京伝自身が登場し、結末では花魁と結婚するというもの。確かに14歳の少女が書いたと考えると微妙である。そこで自作として出版することは気恥ずかしかった京伝が妹の名で出版したのではないか、というのである。いずれにしてもこの作品は、京伝が遊女を娶ることを予見していたといえるのだ。
京伝に惚れた一人目の妻・菊園
ドラマの舞台は現在1779(安永8)年、京伝は18歳の若者である。端正な顔立ちだったと伝わる京伝は、吉原遊びも器用にこなす遊び人だった。町人ながら大田南畝(桐谷健太)や恋川春町(岡山天音)など武士作者と親交を深めていく。蔦重とともに次々とヒット作を生み出しながら、狂歌の会などさまざまな遊びを一緒に楽しむようになるのだ。
吉原では大見世の扇屋宇右衛門(山路和弘)と親しかった。『べらぼう』でも蔦重の養父・駿河屋市右衛門(高橋克実)にさりげなく助言をする理知的な扇屋は、江戸の代表的な通人「十八大通」の一人で、和歌や書などに通じた教養人。京伝の最初の妻は扇屋の番頭新造だった菊園である。
番頭新造とは、花魁のマネージャーのような役割で、年季明けの遊女が就く。男前の京伝に惚れた菊園は、27歳で年季が明けても吉原に残った。扇屋が気を利かせて菊園を京伝のもとへと行かせたと伝わる。京伝30歳。
京伝の両親も元遊女の菊園を受け入れた。菊園は素直な性格で、家事に精を出し舅姑にもよく仕えたという。しかしそんな幸せもつかの間、3年後の1793(寛政5)年、菊園は血塊(婦人病)を患い病死してしまう。
京伝が慈しんだ二人目の妻・百合
菊園の死後、京伝は銀座に煙草入れなどを商う京屋伝蔵店(京伝店)を開店。大人気を博して商品は売れに売れた。
父が亡くなり、京伝が岩瀬家の当主となった翌年、京伝は40歳で弥八玉屋の遊女・玉の井(百合)23歳を20余両で身請けし妻に迎えた。瀬川の1,400両には遠く及ばないが、それでも現代の価値にして400万円ほどである。
2人は年齢差を感じさせない仲の睦まじさだった。百合は子どもをあやすように京伝に接したと伝わる。
京伝は物語の構想を人に話すことを嫌ったが、百合には最初に話したという。京伝も50を過ぎるころには忘れっぽくなり、妻に話しておけば安心できたというのである。
子のいない京伝は、百合の幼い妹・滝を養女にして我が子のようにかわいがったが、滝は15歳で病死してしまう。そのころ京伝自身も大病をしたこともあり、滝の死は非常にこたえたようであった。
自分亡き後の百合が生活に困らずに暮らしていけるように、同じころに京伝は髪結い株を150両で購入。『べらぼう』でも言及されたが、江戸時代は職業ごとに株=営業権があった。京伝が購入したのは、髪結い職人にその権利を貸し出し、月に3分(1両の3/4=約80,000円)の利益が得られるというものだった。
京伝の後輩・曲亭馬琴によれば、京伝はこのとき「わたしがいなくなったら、妻は誰に頼るというのか。あなたならどうするか」と尋ねたという。馬琴は「あなたが奥さんの老後を思うなら、あなた自身が長生きするしかない」と答えた。
しかし、その4年後1816(文化13)年に京伝は急死してしまう。京伝亡き後の百合の境遇は、京伝が思い描いたものとは違っていた。





















